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うっ血性心不全と抜歯手術。 

抜歯手術

 東京の開花入院中に聞くとは思ってもみなかった。3泊4日程度の短い入院の筈だったが、3月の半分以上を病院で過ごす事になろうとは…。今回の入院抜歯手術を受けるためであり、3月4日の歯科外来で入院の予約を取った。推定される入院期間は2~3日、外来で抜歯という方法もあったが、抱えている心臓疾患とワーファリンによる出血などのリスクを考慮して、入院による抜歯を選択した。
 3月6日、9時30分までに入院受付に行かなければならないため、数年振りに通勤時間帯の満員電車に乗った。入院中は何が起こるか分からない、不測の事態に備えるためパジャマや下着は多めに用意した。
 岩本町駅で降りて三井記念病院までは徒歩15分程度だが、体調が余り思わしくないため息切れが酷く途中何度も立ち止まり深呼吸を繰り返した。この不快な息切れで嫌な予感が脳裏を掠め、「ちょっとやばいかも…」と歩道に向けて捨て台詞を吐いた。
 流れる人ごみの足取りはみな快活で、朝の喧騒が都会の一日の始動を伝えている。病と言う重い足枷を引き摺って病院の門を潜るのとは大違いである。入院受付に着くと、番号札を取り順番を待つ。数分後、簡単な事務処理を済ませ女性事務員に誘導されつつ入院先の13階へと移動。忙しなく肩で息をしている私に看護師が声を掛けて来た。
 「大丈夫ですか?息切れが酷いようですが…」「うん、ちょっと心不全の兆候が出て来て…」心不全のことは全く伝えていなかったため、看護師が驚いた様子で「体重は増えてます?」「一週間ほど前から増えて来て…」「体重測りましょう」。
 体重計に足を乗せると66キロを軽くオーバーしていた。私の標準体重は62~63キロ。僅か一週間で約4キロ増えており、この4キロが殆ど余分な水分で身体中に溜まっているのである。心臓が悲鳴を上げるのは当然のことだった。
 その日の午後に予定していた抜歯手術は急遽延期となり、うっ血性心不全の治療が最優先となった。酸素吸入が始まり、歩行はトイレまで。それ以上の移動は車椅子と酸素ボンベが一緒だった。13階は外科病棟のため、翌日12階の一般病棟へ移動となる。ラシックス20ミリの静脈投与が開始され、水分制限は700mlまで。一日コップ3杯の水さえ飲めないのである。これはかなり辛かったが、水の有り難さを改めて思い知らされることとなった。
 食事に至っては腎不全食のため、塩分は一日4gとこれもまた水分と同様に厳しい内容だった。そうして数日後、漸く体重が落ち始め、呼吸も幾らか楽になったものの胸に溜まった水が中々抜けず、利尿剤のサムスカが増量となる。それが功を奏して入院8日目にしてやっと63キロ台の体重に戻り、心不全の症状も大きく改善した。
 そして15日、本来の目的であった抜歯手術のため、再び13階へと移動。術前の抗生物質の点滴を開始。抜歯は歯科外来の特別室で行われた。上の歯3本を抜くため時間が掛かりそうだったが、意外とすんなり終わり抜歯そのものは40分ほどで済んだ。局所麻酔のため、歯を抜く時の「ミシミシ」という音が頭に響いて血の気が引く思いだった。
 麻酔が切れる頃を見計らって痛み止めのアセリカ点滴開始。3年前の抜歯時、痛み止めのカロナールが全く効かず、2日間眠れぬ夜を過ごし担当医に何度もお願いしてモルヒネを打ってもらったことを思い出した。今回は痛みの不安が早々に解消された点は良かったのだが…。抜歯後の出血さえなければ18日の土曜日には退院出来る筈だった。
 止まらぬ出血に苛立っていたのは私だけでなく、担当医も困り果てていたようだ。「神戸さんのように何日も血が止まらない人は始めてですよ…」。血液をサラサラにする薬のワーファリンとバイアスピリンを長期間に渡り服用しているため、血が止まりにくいのは術前から分かっていることではあったが、私は特に止まりにくい体質のようだった。裏を返せばそれだけ薬が良く効いているとも取れるのだが。
 止血にはガーゼを傷口に当てて噛むしかない。日中はそれでも止まっている時もあるが、夜、眠った後に出血し、口の中に溜まった血液が口元から零れ出てパジャマやベッドのシーツを真っ赤な鮮血に染めてしまった時はショックだった。
 止血用のマウスピースを作りそれを嵌めて様子をみたが、それでも出血は続いた。口の中を何度もうがいする。白い洗面台に鮮血が飛び散りそれをペーパータオルで拭く。その繰り返しだった。術後一週間が経過しても出血が続くため漸く止血剤を使用。すると今までが嘘のようにピタリと出血は止まった。そうして想定外の日々が終わり24日の退院へと辿り着いた。
 24日、歯科外来を受診した後、次の外来を予約して晴れて退院となった。その日はの蕾が一斉に開花するのではないかと思わせるほど温かい穏やかな日であった。それにしても今年も入院なしを目指そうとしていた想いはいとも容易く崩れ去った。抜歯は仕方ないにしても、心不全を起こさない事が目標達成の道しるべであるのに、我ながら情けない結果となった。それでも今回の入院は定期的なメンテナンスと捉え、次のステップとして前向きに受け止めようと思っている。

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入院ゼロまでのカウントダウン。 

三井記念病院

 時の流れは想像以上に早く感じるもので、今年も余すところ後1ヶ月と少し。昨年を振り返ってみると丁度今頃は心不全で三井記念病院に入院中であった。年の始めになると毎年のように抱負を語るが、今年もやはり「入院しない」だった。その抱負がもう少しで現実のものになろうとしている。
 過去5年間を振り返ってみると、2012年は1月の循環器外来時、心臓が肥大していたため入院を勧められたが、愛猫タラがいたため入院を断り自宅にて静養。それも入院に含めれば100%の確立で入院を余儀なくされていた。
 最も酷かったのは2013年1~4月に掛けて。既にご存知の方も多いと思うが、私の長い闘病履歴から見れば「万事休す」そのものだったのが脳梗塞である。右半身が完全に麻痺した時の恐怖は簡単に言葉で表せるものではない。然しながら幼い頃から強運の持ちである私はこの時も奇跡的な復活を果たした。
 僅か10日で退院出来、喜び勇んでいたのも束の間で退院から1ヶ月で心不全のため救急搬送、約1ヶ月の入院治療で4つの心臓疾患に加えて慢性腎不全と言う厄介な病名が追加されてしまい、これまで以上に水分管理・食事制限が厳しいものとなった。そしてその年3回目の入院は4月下旬、やはり心不全だった。
 それ以降は毎年11~12月になると救急車を呼ぶ羽目に…。これらは全て自己管理を怠ったための謂わば自業自得の結果であったが、将来的に3回目の心臓手術も視野に入れる可能性が浮上した時、これまでの情けない自分を戒めるように決意を現実のものにする覚悟を決めた。
 病気は自分一人で乗り越えられるものではない。そこには多くの医療関係者、友人、知人、そして同じような悩みを抱える仲間たちがいる。その存在なくして今の自分は有り得ないだろうし、今年の抱負に現実味が増して来たのも応援してくれる有り難い仲間がいるからだ。
 今年も多くの善意に助けられ、感謝の極みである。そして入院を回避出来た事は将来に向けて大きなステップとなり、新たな希望の光と自信に繋がってくれるだろう。今年がまだ終わった訳ではない、手綱を引き締めて油断せぬよう残りの日々を送りたいと思う。

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薬とため息の日々……。 

一包化

 8月下旬の事だった。それまでの猛暑から一転、気温低下と共に体調に異変が生じた。花火を見に行った時の元気は影を潜め、体重が微妙に増え始めていた。脳梗塞を患った2年前から介護保険を利用出来るようになり、週に一度、訪問看護ヘルパーさんが来宅してくれるようになっていたが、まさか自分が介護を受ける身になるとは思ってもいなかったし、外見は何処から見ても健常者と変わらず重労働以外なら何でも自分で出来たが、主治医の見立ては自分が想像していたより悪かったのだろう。
 木曜日の午前中、訪問看護師に体調の悪さを訴えた。バイタルチェックをしながら看護師が話し掛けて来る。「猛暑から急に気温が低くなったからねぇ…」私の手足を触りながら「うーん、冷たい…血行が良くないね」。心臓のポンプ機能が低下しているため、身体の末端まで十分な血液を送り出せない状態なのであるが、入院するほどの心不全には至っていないのがせめてもの救いだった。
 食事制限をしっかり守っているにもかかわらず体重が増えて来るのは、水分の摂り過ぎによるものらしい。一日1.5リットルを守る難しさを、この夏は改めて思い知らされた。「薬はどう?飲み忘れとかないかな?」。
 この二十数年間、薬の管理は全て私一人で行って来たし、薬の種類、飲み方、効能、副作用も頭の中に叩き込んである。だから薬については自信はあった筈なのだが…。入退院を繰り返して行く内に、薬の数は増えて行くばかりで、種類が変わっても減る事はまずなかった。
 大量の薬をシートから出すとみな同じ色、形だったりするから区別が付かなくなる。手の平から零れ落ち床に転がる薬もあっただろう。日々の命を繋ぐ大切な薬だからやはり飲み忘れが一番怖い。看護師もその点を察知して、『薬の一包化』を提案してくれた。何十年も薬を服用しているのに、一包化と言うそんな便利な事が出来ることすら知らなかった。
 そして薬局探しを看護師に依頼、服用している薬がその薬局で全て扱っているとは限らないため、事前に薬の内容を薬剤師に伝える必要がある。薬局は薬を『薬の問屋』から購入して、患者に提供している。薬局に行けばどんな薬も揃っていると思うのは大間違いなのである。
 一包化を提案してくれた看護師さんと、そして一包化を快く引き受けてくれた地元の薬剤師さんに感謝(一軒目は断られた)である。これでもう飲み忘れも飲み過ぎもなくなり不安は解消されたのだが…。

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術前検査と7年振りの心臓カテーテル。 

カテーテル
 
 昨年12月の退院から僅か2ヶ月余りで再入院。年頭に掲げた『今年は入院0を目指す』は早々に脆くも崩れ去った。2月初旬辺りから体重が徐々に増え始めた為、かなり食事に気を使っていたのだが、やはり限界だった。
 2月14日の夜、三井記念病院の救急外来へ電話を入れ『心不全の症状が出ている』事を看護師に伝えると、これまでとは違い「タクシーで来れますか?」と意外な返事。話している感じから救急車を呼ぶほどではないと判断したのだろう。
 入院グッズを大きなバッグに詰め込み、タクシーを呼んだ。土曜日の夜と言う事もあり、渋滞する事もなく道路もスムーズで1時間も掛からず病院へ到着。「じゃ、お大事に…」運転手の労いの言葉を背中に受けつつ、夜間受付のドアを開けた。「神戸さんですか?」薄暗いロビーに居た警備員が声を掛けて来た。
 夜間受付の女性事務員がやって来て待合室に通される。重たいバッグが心臓に更に拍車を掛け、立っていられないほど息切れも酷く、受付の椅子に座り込んでしまった。事務員が運んで来た車椅子に移り、救急外来の処置室へと入って行った。
 当直の医師と研修医、そして循環器内科の医師が、いつものように私の心臓を調べあげて行く。レントゲン、超音波、心電図、血液検査…。前回入院した時のデータと照らし合わせつつ、「今回の方が重症かな…」と意外な言葉が返って来た。
 いつも「もっと早く来なければ駄目」ときつく看護師から言われ続けていたので、自分ではかなり早目の来院だと思ったのだが…。多少辛くても強がって見せる自分が今回も裏目に出たのかも知れない。酸素吸入と左腕に点滴を施し、ベッドのまま入院棟へと運ばれた。
 病室も前回と同様で循環器病棟の715号室。その部屋はまるで私の為に開けて待っていてくれたかのように静かに佇んでいた。土日に掛けての入院だった為、担当医が決まるのは月曜日だったが、それもまた前回と同じS医師であった。
 検査の為、車椅子で移動している最中に私のリハビリ担当で理学療法士のY先生と鉢合わせ、顔を見るなり「あれー、かんべさん、戻って来るのがちょっと早いんじゃないの?」笑みを浮かべながらの挨拶に「そうですよねー、早すぎです…」と私もまた照れ笑い。
 入院4日目、循環器内科部長が数人の医師を引き連れて私の元にやって来た。開口一番「手術についてですが…」と、いきなり心臓の手術について触れて来た為、「とうとうこの日が来たか…」と腹を括った。短期間で心不全を繰り返し、入院を重ねて行く内に心臓はダメージを受け続け、回復力も弱まり内科的治療も限界点に達しようとしていた。
 これ以上薬を増やす事も出来ず、薬そのものの効き目も思う様に効果を上げて来ない。この辺が潮時で、外科的治療に踏み切った方が良いのではないかと言う医師たちの見立てである。心不全の病根となっている『三尖弁逆流』『収縮性心膜炎』この2つについて外科的アプローチを行う訳であるが、手術をしたからと言って26年前に受けた『僧帽弁置換術』の時の様に、状態が劇的に改善されると言う保証は何処にもなく、3回目となる開胸術の為、医療ドラマに度々登場する『癒着』が激しく、それらを剥がして行く作業がかなり手術事態を難しくする事も予想が付いた。
 次の日から手術を前提とした術前検査が始まった。『CTスキャン』『弁透視』『肺拡散能力』等など。そして是が非でもやっておかなければならない検査が『心臓カテーテル』。慌ただしい検査の連続をよそに心不全の状態は徐々に改善され、23日に一般病棟の14Fへと移った。
 そして27日、午後1時30分、心臓カテーテル室へ。この部屋に入るのは、2008年6月、不安定狭心症で緊急入院し、カテーテル治療により右冠動脈にステントを入れ、辛くも一命を取り止めて以来、7年振りの事となる。左手首の動脈と、両足付け根の静脈と合わせ3箇所からのカテーテル。局部麻酔だから意識は鮮明で、医師や看護師の言葉や行動が手に取るように分かった。検査は予定通り約2時間で終わり、後はベッド上で4時間の絶対安静へ。
 足の方は4時間が過ぎれば自由に動いてよいのだが、手首の方は圧迫止血バンドを装着した部分が痛み出して余り良く眠れなかった。次の日の夜、担当医から検査結果の説明を受けた。余命1年の宣告を言い渡された時のような緊急を要する状況ではない為、今回は手術を見送る事にした。但し、年に2、3回と入院を繰り返す様であれば手術を受ける事になるだろう。
 まな板の鯉が切られて元気を取り戻し、再び大きな池に放たれて勢い良く泳ぎ回る…そんな姿を想像しながら、手術を前向きに捉え希望の灯火として受け止めようと思っている。ワーファリンの効き目が中々安定しなかった為、予定より2日遅れて3月7日退院となった。
 皆さんにご心配をお掛けした事をお詫びするとともに、今後も末永く見守って頂けると有難いです。どうぞ宜しくお願い致します。
管理人 神戸俊樹
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頑張れ心臓、負けるな腎臓! 

入院

 今年2度目の緊急入院となった11月28日、『心不全』の場合は必ず救急車を呼ぶ事となる。三井記念病院の救急外来に電話を入れ、「数日前から体重が4キロ増加し、起坐呼吸でないと苦しい」旨を看護師に伝える。
 「救急車を呼んで下さいね…」予想通りの返答で、119へ…。数分後『ピーポーピーポー』が聞こえ始め、3人の救急隊員が椅子型ストレッチャーと心電計を持って私の部屋へとやって来た。『期外収縮』と『心房細動』そして『ST低下』等の不整脈がある事を隊員たちに伝える。
 もうすっかり乗り慣れてしまった救急車が、夜の闇に白く浮かび上がって私を待っていた。出来る限りの不安を取り除こうと、救急隊員の優しい声が私の身体を包み混んで行く。「人はどうしてこうも優しくなれるのだろう…」蒲田の自宅アパートが火災に遭った時も、消防隊員の胸を打つほどの優しい言葉に涙が流れたほどである。
 救急外来では、その日の当直医2人(研修医1人)が心電図や心エコー、レントゲンなどで心臓の状態を調べ、血液検査の結果を待って入院の有無を決めるが、私の場合は入院必至である。但し今回は今までよりも症状が比較的軽かった為かCCUへは入らず、循環器病棟での治療となった。
 様態が落ち着いた12月9日、一般病棟の18階へ移動。最上階の19階はVIP患者専用の個室病棟で、1日8万円となっている。高層階からの眺めは絶景で、富士山、ディズニーランド、スカイツリー等が望める。
 私は今回の入院で自分が重病人である事を今更ながら再認識する事となった。20代そこそこの若い看護師が言った。「かんべさんは自分が重病である事を自覚してないみたいですね?」「うーん、そうかも知れない…病歴が余りにも長いと病気の感覚が麻痺しちゃうんだよね」「サムスカを15mgも服用している患者さん初めて見ましたよ…」。
 今回の入院で初めて投薬されたのが『サムスカ』であった。これは利尿薬として最もポピュラーな『ラシックス』と比べて若干作用が異なっている。体内の余分な水分やナトリウムを体外へ排泄し、浮腫を解消する訳であるが、カリウムなども一緒に排泄されてしまう為、使い過ぎると『低カリウム血症』を招くと言うリスクを伴うラシックスに対し、単純に水分のみを排泄してくれるのが『サムスカ』である。
 更に腎臓への負担もラシックスに比べると遥かに優しいと言う利点もあるが、効き過ぎると脱水症状を招く為、外来で管理出来る量は7.5mgまでと言う厄介な部分もある。
 いずれにせよ、入院を重ねる毎に回復力が弱まっている事を思い知る結果となった。1日塩分6g、タンパク質40g、1600キロカロリーと言う『腎不全食』を自宅で再現し持続させる難しさを痛感し、心が折れると言うより『心が捻じ曲がってしまった』ような敗北感をこの入院生活中に味わう事となった。
 それでも私は多くの優しい人たちの善意に包まれ、そして生かして貰っている訳で、それに対し私は出来うる限り最大限の努力をして、皆さんの気持ちに応えて行かなくてならないと思っている。更に闘病は果てしなく続くけれども、こんな私とこれからもどうか宜しくお付き合い頂ければ幸いです。

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猫の手も借りたい闘病記録。 

猫の手

 新年を故郷や海外で迎える人たちの帰省ラッシュがピークを迎えている。それぞれの想いを抱えた2013年がもう直ぐ終を告げる。そこに待ち受ける新しい産声を聞く為に、その声に新たな希望を託して人はまた未来に向けて歩き始める。
 今年もいよいよ数日を残すのみとなりました。街角ではカウントダウンの鐘が鳴り響いている事でしょう。年賀状の投函も済ませ、後は除夜の鐘を聞くのみと言った所ではないでしょうか。私の場合、詩は兎も角として小説などは自分を追い込んでギリギリになるまで書かない性格なのですが、それが持病にまで影響し、心不全を発症しているのにギリギリまで我慢してしまうんですね。
 もう限界となった時点で漸く救急車を呼ぶ…、搬送先の病院で看護師に「もっと早く来なければ駄目ですよ」といつも怒られてばかり、まるで子どものようです。
 2013年を振り返ると、やはり闘病の一年でした。病気が治る訳ではないので闘病自体死ぬまで続くのですが、今年は特別でした。正月早々心原性脳梗塞で倒れた時の事がトラウマになっております。深夜1時、部屋の灯りを消す為にベッドから起き上がろうとした所、身体が全く動かない…、初めての経験で、それは言葉に出来ないほどの恐怖でした。
 自分の身体に何が起こっているのかその時はまだ理解しておらず、動かない手足を何とかしようともがいている内にベッドの下に転落。その時かなり強く打った為、今でもその打撲痕が消えずに残っています。
 右半身の感覚が全くないため痛みは感じませんでしたが、骨折しなかったのが不思議な位で、右腕がどんな状態になっていたのか想像すると恐ろしくなります。ベッドの下で一時間ほどもがいていたでしょうか…、兎に角助けを呼ばなければと思い、自由に動く左腕のみを頼りにベッドへと戻りました。そして左手で携帯を握り締めたまではよかったものの、右腕を必死に携帯の所に持って行こうとするのですが、全く力が入らず成す術もないまま携帯を見詰めておりました。
 「万事休す」人生の終わり、つまり「死」を悟った瞬間でした。声も出ず助けも呼べず、孤独と絶望に打ちひしがれた正月の深夜…。流れ出るのは鼻水と涙とだらしなく開いた口元からの唾液のみ。然し、そうやって地獄の淵に佇む私に向かって、またしても幸運の女神が微笑んだのです。
 入院から10日後には脳梗塞の後遺症も全くなく、奇跡の復活を遂げた訳です。この様な「九死に一生」体験をすると、その年は運が悪い大凶と思ったりしますが、結果を見ると「大吉」ではないかと考え直し前向きの姿勢に修正出来たりするものです。
 脳梗塞の後、立て続けに起こった「心不全」によりまたしても救急搬送され、今年前半は病院生活に費やされてしまった訳ですが、病気を活力の源と置き換える事が出来れば、闘病生活の中に希望の光を見出す事が出来るのではないでしょうか。
 絶望からスタートした2013年も終わり、何はともあれ生きている事の喜びを噛み締めて、来年は希望からのスタートにしたいものと思っております。この一年、私のブログに訪問して頂いた皆さま方全ての人に幸多き年となるよう心からお祈りし感謝致します。
 今年一年ありがとうございました。そしてまた来年もどうぞよろしくお願い致します。

管理人:神戸俊樹
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腎不全定食は如何ですか? 

腎臓食

 わたしは入院する毎に病院で出された食事をカメラに収めておく。記念撮影などと悠長な事は言ってられないが、朝、昼、夕と毎日のメニューを撮影し、退院してからの食事管理に役立てようと思っているからだ。
 心不全入院した場合の治療方法はほぼ決まっているものの、担当医によってその治療方針は若干異なって来る。わたしのように年に何度も入院を繰り返す患者の場合は、前回入院時のカルテを参考にして更に一歩踏み込んだ治療方法を模索する。
 基本的には点滴を打ちながらの絶食がお決まりコースで、心臓への負担を出来るだけ軽くする為の処置。これに加えてラシックス(利尿剤)を投与。これは増え過ぎた体重を減らし身体の浮腫を取る為であるが、余り大量に使うと腎臓に負担を掛けてしまうので、血液検査をしながら慎重に行われる。
 そして最も重要なポイントが食事療法。心臓食の場合、一日の摂取カロリーは1600~1800Kcal迄とし、塩分は一日6g、それに加えて水分もかなり制限があり、入院初日~一週間は一日500ミリリットルと非常に厳しいものになる。
 絶対安静と絶食、そして食事療法によって一週間も経てば体重は4~5キロ落ち、心臓もかなり楽になり、呼吸もスムーズに出来るようになるから身体の状態によっては酸素吸入も外せるようになる。
 絶食をする理由は心臓への負荷を減らす為であるが、食べ物が胃に入ると身体の血液が一気に胃に集中しその為に心臓が普段の倍近い働きをしなくてはならない。食事=心臓への負担が増える…と言う事になる訳で、更に胃が膨張すると心臓を圧迫して呼吸困難になってしまうため、食事の量も出来る限り抑えなくてはならない。
 脳梗塞で右半身が完全麻痺し、救急搬送された1月、その時の食事は「心臓食1800Kcalであった。心不全を併発している訳ではなかったので、脳梗塞の状態(これと言った治療はなかった)が、安定した事を確認(後遺症は全くなし)し、10日ほどで退院出来たのだが、その一ヶ月後に心不全救急搬送
 心不全を起こした原因が前回入院時の担当医が新たな心不全の薬を経過もそこそこに投与した為、その副作用によるものであった。その問題の薬(メインテート)を中止して、脳梗塞以前に服用していた薬に一旦戻し、いつもの絶食と食事療法で体重を戻した後に約一ヶ月の入院期間を経て退院となったが、食事内容に若干の変化があった。前回1800Kcalだったものが、1600へと僅かに減量されていた。
 そしてその約2ヶ月後の4月末にまたもや心不全救急搬送となる。3回目の入院で大きく変化したのが食事内容であった。食事が出された時、何かの間違いではないかと思い、看護師に思わず詰め寄ってしまったのだが、それは担当医の指示によるものであった。
 腎不全食…と書かれた紙を眼にし、ため息を付いてしまった。心臓食でもかなり厳しい制限があるにも関わらず、今度は更にその上を行く腎臓食である。確かに腎臓も健康な人と比べればかなり機能も落ちて弱って来てはいるが、とうとう食事にまでそれが及んでしまったかとがっくり肩を落とす羽目になってしまった。
 腎臓食は12歳の時に入院した藤枝の志太病院小児科病棟以来であった。摂取カロリー1500、最も厄介なのは蛋白質の厳しい制限である。一日40グラムと言われて、それ以来買い物する度にタンパク質の含有量を気にしている。
 独身男性が自宅で病院食とほぼ同じメニューを作るのは極めて難しい。撮影した病院食を参考にしながら出来るだけそれに近い物をと思っているが、中々思い通りには行かない。つい「腎不全定食がコンビニで売ってないかな(宅配は高い)…」と愚痴を零したくなるのである。
 退院する時に冗談で「病院食の宅配とかやってくれると助かるのにねぇ…」と、栄養士に話を振ってみたが、「採算が合わないよね」とあっけない幕切れだった。
 さて、今回、体重増加による心不全の症状が出た為、ブログを暫く休止し、皆さ様方には大変ご心配をお掛けし申し訳なく思っておりますが、入院時の環境を自宅で再現出来る筈もなく、無謀とも思える自力療法で増えてしまった体重を約5キロ落とし短期間でブログ復活となった訳でありますが、医師の指示に逆らうようなわたしの真似は皆さん絶対にしないで下さい。
 自力で回復出来たその背景には長年の闘病生活の中で培って来た、これは主治医にも分からない病気である本人にしか理解出来ない闘病マニュアルがあるからであり、そのノウハウは先進医療や優れた薬剤をも凌ぐ生きる為のバイブルとも言えますが、難点は自分にしか通用しないと言う事です。が、然し、そのエネルギーの源は、人との触れ合いの中で育まれ、成長して行く事だろうと思います。
 所詮、人間は一人では生きられない、ならばお互いに助け合って笑顔を絶やさず前向きに明日を信じて歩いて行こうではありませんか。これからもビーチサイドの人魚姫と神戸俊樹をよろしくお願い致します。

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アンパンマンからの贈り物。 

アンパンマン

 国民的キャラクターとして子どもから大人まで幅広いファン層に絶大な人気を誇った「アンパンマン」の生みの親である「やなせたかし(本名:柳瀬 嵩 94歳)」さんが、先日の13日に心不全のため亡くなった。
 心不全の症状が出ていた為ブログを暫く休止していたのだが、やなせたかしさんの死因が心不全と言う事であり心なしか穏やかではなかったが、94歳と言う年齢を考えれば大往生ではなかったかと思う。
 日本漫画家協会の理事長を長く努め、漫画家・絵本作家・イラストレーター・歌手・詩人と多くの肩書きを持つやなせさんと初めて出会ったのはわたしが16歳の時だった。
 当時、みつはしちかこさんの「小さな恋のものがたり(チッチとサリー)詩画集」が女子中高生の間でブームとなっており、静岡の書店でも飛ぶように売れていたと記憶している。この頃、わたしはまだ詩を書くと言うまでには至っていなかったが、手紙を書くのが一つの趣味となっていたため、何人かの相手と「文通」をしていた。
 気に入った女性相手にはやはり気の利いた言葉を綴りたいと思っていたので、そのヒントを得る為に何冊かの本に目を通していた。そんな中で一際目立っていたのがサンリオから出版されていた『詩とメルヘン』であった。
 『詩とメルヘン』はやなせたかしさんが編集を担当した文芸雑誌で、一般人が投稿した詩やメルヘンにイラストレーターたちが挿絵をつけるという画期的な雑誌であり人気を博していた。わたしも何冊か購入し文通の手助けとしてお世話になっている。
 やなせたかしさんは上記の肩書き以外にも多彩な経歴があり、作詞・作曲も手掛け多分野で活躍しその才能を発揮している。作詞では『手のひらを太陽に』が代表作品である事は誰もが知るところであるが、「アンパンマン」以前には現在のようにそれほど注目を浴びるには至らなかった。
 アンパンマンが初めて登場したのは1969年であるが、その頃のアンパンマンは普通の人間と同じ姿であり、現在のそれとは大きく異なっていた。子どもだったわたしの記憶に全く残っていないのは、大人向けの絵本「こどもの絵本」に掲載されていたからだと思うが、当時、親だった人たちの記憶には残っているかも知れない。
 アンパンマンがどのような経緯を辿って現在の人気キャラクターになったのか、アンパンマン生誕44年と言う長い過去を紐解いてみるのも良いかも知れないが、忘れてならないのは「空腹の人にパンを届ける」と言う骨子が誕生から現在まで変わる事なく貫かれている事であろう。
 やなせさん自身が語っているように「本当の正義の味方は、戦うより先に、飢える子供にパンを分け与えて助ける人だろう、と。そんなヒーローをつくろうと思った」は、やなせさんの戦争体験が背景になっているものと思われる。
 食料の乏しい戦地での過酷な体験により、人間にとって最も辛いのは「飢え」であると言い切るやなせさんの言葉は「命の継続」が如何に大切かを教えてくれているのではなだろうか。
 遅咲きのヒーロー「アンパンマン」はこれからもわたしたちに愛と勇気を教えてくれるに違いない。
 謹んでやなせたかしさんのご冥福を心よりお祈り申し上げます(合掌)。

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