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命のプレゼント―心臓病をありがとう。 

命のプレゼント


寺嶋 しのぶ
命のプレゼント―心臓病をありがとう
四六判・上製・帯付/132ページ
著者/寺嶋 しのぶ
カバーイラスト/寺嶋 しのぶ
カバーデザイン/森下 恵子
発行所/文芸社
定価/本体1200円+税
ISBN4-8355-9198-4 C0092


 私の著書 天国の地図と同じ文芸社から2005年6月に出版された詩集である。著者の寺嶋しのぶさんは「全国心臓病の子どもを守る会」の内部組織「心友会」のメンバーでもあった。
 私は現在でもこうして生き長らえているが、彼女はもうこの世にはいない。その代わり命の尊さを詩に託して生きることの素晴らしさを残して行ってくれた。
 重度の先天性心臓病であった彼女は、幼い頃より度重なる手術に耐えなければならなかった。この病との闘いの中で、彼女は生きることの素晴らしさを日々抱きしめていた。
 「あぁ…/私はここにいる/命を受けて/愛されて/私はここで生きている」(「生命」より)と。だが、18歳で4度目の手術を受けた際、虚血後脳症となり脳死寸前に。
 そして2004年、23歳の若さでついに力尽きてしまう……。
 本書は著者が14歳から18歳までに書き綴った詩を集めた作品集。生命への賛歌を高らかに謳い上げた感動の一冊。


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うっ血性心不全と抜歯手術。 

抜歯手術

 東京の開花入院中に聞くとは思ってもみなかった。3泊4日程度の短い入院の筈だったが、3月の半分以上を病院で過ごす事になろうとは…。今回の入院抜歯手術を受けるためであり、3月4日の歯科外来で入院の予約を取った。推定される入院期間は2~3日、外来で抜歯という方法もあったが、抱えている心臓疾患とワーファリンによる出血などのリスクを考慮して、入院による抜歯を選択した。
 3月6日、9時30分までに入院受付に行かなければならないため、数年振りに通勤時間帯の満員電車に乗った。入院中は何が起こるか分からない、不測の事態に備えるためパジャマや下着は多めに用意した。
 岩本町駅で降りて三井記念病院までは徒歩15分程度だが、体調が余り思わしくないため息切れが酷く途中何度も立ち止まり深呼吸を繰り返した。この不快な息切れで嫌な予感が脳裏を掠め、「ちょっとやばいかも…」と歩道に向けて捨て台詞を吐いた。
 流れる人ごみの足取りはみな快活で、朝の喧騒が都会の一日の始動を伝えている。病と言う重い足枷を引き摺って病院の門を潜るのとは大違いである。入院受付に着くと、番号札を取り順番を待つ。数分後、簡単な事務処理を済ませ女性事務員に誘導されつつ入院先の13階へと移動。忙しなく肩で息をしている私に看護師が声を掛けて来た。
 「大丈夫ですか?息切れが酷いようですが…」「うん、ちょっと心不全の兆候が出て来て…」心不全のことは全く伝えていなかったため、看護師が驚いた様子で「体重は増えてます?」「一週間ほど前から増えて来て…」「体重測りましょう」。
 体重計に足を乗せると66キロを軽くオーバーしていた。私の標準体重は62~63キロ。僅か一週間で約4キロ増えており、この4キロが殆ど余分な水分で身体中に溜まっているのである。心臓が悲鳴を上げるのは当然のことだった。
 その日の午後に予定していた抜歯手術は急遽延期となり、うっ血性心不全の治療が最優先となった。酸素吸入が始まり、歩行はトイレまで。それ以上の移動は車椅子と酸素ボンベが一緒だった。13階は外科病棟のため、翌日12階の一般病棟へ移動となる。ラシックス20ミリの静脈投与が開始され、水分制限は700mlまで。一日コップ3杯の水さえ飲めないのである。これはかなり辛かったが、水の有り難さを改めて思い知らされることとなった。
 食事に至っては腎不全食のため、塩分は一日4gとこれもまた水分と同様に厳しい内容だった。そうして数日後、漸く体重が落ち始め、呼吸も幾らか楽になったものの胸に溜まった水が中々抜けず、利尿剤のサムスカが増量となる。それが功を奏して入院8日目にしてやっと63キロ台の体重に戻り、心不全の症状も大きく改善した。
 そして15日、本来の目的であった抜歯手術のため、再び13階へと移動。術前の抗生物質の点滴を開始。抜歯は歯科外来の特別室で行われた。上の歯3本を抜くため時間が掛かりそうだったが、意外とすんなり終わり抜歯そのものは40分ほどで済んだ。局所麻酔のため、歯を抜く時の「ミシミシ」という音が頭に響いて血の気が引く思いだった。
 麻酔が切れる頃を見計らって痛み止めのアセリカ点滴開始。3年前の抜歯時、痛み止めのカロナールが全く効かず、2日間眠れぬ夜を過ごし担当医に何度もお願いしてモルヒネを打ってもらったことを思い出した。今回は痛みの不安が早々に解消された点は良かったのだが…。抜歯後の出血さえなければ18日の土曜日には退院出来る筈だった。
 止まらぬ出血に苛立っていたのは私だけでなく、担当医も困り果てていたようだ。「神戸さんのように何日も血が止まらない人は始めてですよ…」。血液をサラサラにする薬のワーファリンとバイアスピリンを長期間に渡り服用しているため、血が止まりにくいのは術前から分かっていることではあったが、私は特に止まりにくい体質のようだった。裏を返せばそれだけ薬が良く効いているとも取れるのだが。
 止血にはガーゼを傷口に当てて噛むしかない。日中はそれでも止まっている時もあるが、夜、眠った後に出血し、口の中に溜まった血液が口元から零れ出てパジャマやベッドのシーツを真っ赤な鮮血に染めてしまった時はショックだった。
 止血用のマウスピースを作りそれを嵌めて様子をみたが、それでも出血は続いた。口の中を何度もうがいする。白い洗面台に鮮血が飛び散りそれをペーパータオルで拭く。その繰り返しだった。術後一週間が経過しても出血が続くため漸く止血剤を使用。すると今までが嘘のようにピタリと出血は止まった。そうして想定外の日々が終わり24日の退院へと辿り着いた。
 24日、歯科外来を受診した後、次の外来を予約して晴れて退院となった。その日はの蕾が一斉に開花するのではないかと思わせるほど温かい穏やかな日であった。それにしても今年も入院なしを目指そうとしていた想いはいとも容易く崩れ去った。抜歯は仕方ないにしても、心不全を起こさない事が目標達成の道しるべであるのに、我ながら情けない結果となった。それでも今回の入院は定期的なメンテナンスと捉え、次のステップとして前向きに受け止めようと思っている。

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心不全シンドローム。 

11入院

 11月17日、救急外来の時計は午前0時を回っており、こんな深夜に救急車で運び込まれたのは始めての事だった。それでも心不全の兆候が現れ始めて直ぐに連絡を入れた為、点滴を必要とする事もなく内服薬だけで入院も短期間で済んだ。
 ところが自宅に戻って一週間ほど経った頃、38℃の発熱。市販の薬は使えないため、栄養ドリンクをお湯割りにして飲み、二日間寝込むと熱は下がったが、また暫くして今度は呼吸困難と息切れが…。
 深呼吸をすると胸の奥がキュッと締め付けられるような、心不全の症状とは明らかに違うため、再入院を覚悟したが退院して間もないため、自分の免疫力を信じ自力で治した。16日の循環器外来でその事を話すと、直ぐ外来へ来るようにと主治医に怒られてしまった。
 インフルエンザに限らず何らかのウイルスに感染し炎症を起こしていた場合、最も危惧されるのは、心内膜炎やウイルスによる人工弁閉鎖不全。最悪の場合は緊急手術となるからで、主治医が怒るのも当たり前の事だった。
 さて、人工弁と言えば、阿部寛が主演する人気ドラマ『下町ロケット・ガウディ計画編』では、国産初の心臓人工弁の開発が至上命題となっており、心臓弁膜症で苦しむ多くの子どもたちの命を救うと言う、医療ドラマとしても見応えのある内容となっており、私も関心を持って観ていた。
 かつては私も弁膜症に苦しむ子どもであり、11歳の時から長きに渡り闘病生活を送る事となったが、東京から入院先の藤枝市立志太総合病院へ著名な心臓外科医が招かれ、私も診察を受けた。体力の無い幼少期では手術をしても助かる確率は50%以下と低く、体力が着く年齢を待って手術に踏み切る方が賢明と言う見立てだった。
 そして19歳の春、3月に静岡市立病院の心臓センターに入院し、静岡県では最も腕の良い心臓外科医『秋山文弥医師』の下で僧帽弁形成術を受けた。当時の生体弁や人工弁は耐久性に劣っていたため、年齢と弁の損傷を鑑みた上で最も適した術式となったが、それは将来もう一度手術を受ける時期が来る事を予見していた。
 そして33歳になった時、蒲田自宅火災のストレスが引き金となり弁膜症が急激に悪化。三井記念病院の循環器センターを受診、担当医から『余命一年』を告げられ弁置換術を受ける事となった。埋め込まれた人工弁は、米国セント・ジュード・メディカル社製のSJM弁と言い、『パイロライトカーボン』と言う素材で出来ており、耐久性と信頼性に最も優れた機械弁で現在でも主流となっている。
 この手術により弁膜症は劇的に改善し、蒼白の顔面が紅味を帯び見る見る内に元気を取り戻す事が出来た。内服は一生続けなければならないが、入院のような闘病からは解放されるとその時は思っていた。
 術後15年を経過した辺りから異変が生じ始めた。心臓の右心房と右心室の間にある三尖弁の逆流、そして糸球体腎炎の疑い。この二つの病変については治療の必要性なしとの見解であったが、どちらも弁置換術の副産物でもあった。そして2008年6月、不安定狭心症で緊急入院。カテーテル治療により右冠動脈にステントを挿入。この時の検査で『収縮性心膜炎』の疑いありと診断される。
 このようにして現在の自分に至る訳であるが、年齢と入院を重ねて行く度に心臓は良くなるどころか悪化の一途を辿るばかりであり、薬の種類は覚えることさえ面倒なほどに増え続けて行く。それでも自分を諦めず、未来の医療に希望を託し生き続けている。こんな傷だらけの私ですが、来年も私とこのブログを宜しくお願い致します。

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父の日は遠い空からやって来る。 

遠い空

 父の日は母の日に比べるとその存在感が若干薄いような気がしますが、父の働く姿を子どもはあまり見かける機会が少ないため、父親が外でどんな仕事をしているのか、それは日常の親子の会話の中でしか知ることは出来ないかも知れません。プレゼントももちろん大切ですが、それ以上に会話は重要です。

 私と父に関しては過去に何度か書き綴って来ましたので想像は付くと思いますが、これから話す内容は私自身も割と最近になって知りました。私と父が一緒に生活した時間は非常に短かいものでした。その中心は小学生時代に凝縮されています。アルコール依存症で酒が切れると手が振るえ、字を書くとミミズ状態でした。最初に届いた葉書が府中刑務所からでしたが、その葉書には酒を止め、一生懸命働き、美味しい物を沢山食べさせてやると書いてありました。もちろん私はそれが本当だったらどんなに幸福だったろうと思っていましたが、それが叶う筈もありませんでした。
 父は酔うと人格が変わってしまい、鬼のような形相になり襲いかかってきます。それも私だけに対してでした。よそ様に手を出すような事(ヤクザ同士の喧嘩以外)はありませんでした。私の喧嘩相手は一番身近な父でしたが、狂った父をとり抑える事など子どもには到底無理。殴られ蹴られしますが、私なりに抵抗はしました。

 父は酔っている時の自分を何も覚えていません。顔に痣を作って学校へ行くと、クラスメートや担任が尋ねてきます。「神戸君その傷どうしたの?」私は正直に答えず「転んだ」と答えます。常にその繰り返しでしたが、いずれ父の行動は学校中に知れ渡る事となりました。そんな私を不憫に思った担任が養子に欲しいと相談があった時はかなり驚きましたが、私はきっぱりと断りました。何故なら私には父親がいるからです。私の心臓病が悪化したのも責任は父にありました。もっと早く医者に診せていればそれほど酷くはならなかったでしょう。酒を飲んでいない時の父は非常に優しく、またお人よしでした。人からの頼まれ事は断ったことがありません。その為、不本意な結果を招き手錠を掛けられたりと、父自身もまた波乱の人生を送り41年前、42歳の若さでこの世を去りました。
 人は死ぬと生前一番慕っていた人の所に魂となって現れると言われています。私は一回目の手術を19歳で受けました。父が亡くなって一年が経とうとしていた時です。かなり以前に短編小説「冬の蛍」を記事にしましたが、あの作品は半分ノンフィクションです。重度の心臓病を抱えた少年と父親の物語ですが、少年に付き添っていた父は既にこの世の者ではなかった…。少年が一番欲しがっていた「蛍」をプレゼントしてあの世に帰っていく父。そして奇蹟が少年の身に起こる。手術の支度を一人で整え、ペーパーバックに必要な物を詰め込み、静岡市立病院の門をくぐりました。春の穏やかな日差しに包まれた病室が、静かに私を迎え入れてくれます。6人部屋の一番窓際のベッドが私の仮の宿。暫くここで過ごす事への恐怖感はまったくありませんでした。心臓の手術を受ける少年にしては妙に落ち着いて見えた事でしょう。
 そして検査に追われる日々が続きました。そして正にこの時、故郷の藤枝である事件が起こっていたのです。亡き父が私に親らしい事を何一つしなかった事は誰もが知るところでしたが、そんな父の愛情が実は非常に力強いものだったと知ったのです。
 藤枝に住む親戚の伯母にその夜異変が起こったのです。なんと父の霊が現れ、伯母に「俊樹が心臓の手術を受けるため入院しているから早く行ってやってくれ」と伯母に頼んだのです。それは毎晩続き、そして日ごとに布団の上に覆い被さって来、伯母は金縛りに合い、身動きが取れない状態になりました。あまりにもしつこいので「そんなに何度も出てくるなら行ってやらないよ」と父に向かって怒鳴ったそうです。するとその次の晩から父は現れなくなったそうです。それまで私は父が自分を本当に愛していたのか心の奥では不信が募っていましたが、この話しで私は鳥肌が立ち、父の愛情が死してもなお別な形で現れたのだと知った時、大きな愛に包まれている自分を知ったのです。窮地に立たされている時、父はこの広い空のどこかで見守ってくれている事でしょう。脳梗塞から奇跡の復活を果たしたのも父のお陰だったかも知れません。
 父の日に何もプレゼントが出来なかった私ですが、私を活かしてくれた父は、やはりどんな言われ方をしても私にとっては偉大な存在です。ありがとう、親父。天国の酒は美味しいですか。酔っ払って天使を追い掛け回す父の姿が見えてくるようです。


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モルヒネと26年振りの手術室。 

2014入院

 2014年の正月を無事に迎える事が出来、今年こそは入院0を目指そうと意気込んでいたその矢先の事だった。それは僅かな歯の痛みから始まったが、それがやがて緊急入院の切っ掛けになるとは思いもしなかった。
 1月20日、昨年末に予約しておいた三井記念病院の歯科外来へ行き、痛みのある奥歯の事を伝え、一週間後に神経の治療をする事になり、痛み止めのロキソニンと抗生剤を三日分処方して貰った。翌日の朝、左顎に違和感があり少し腫れているように思ったが、さほど気にも止めず処方された薬を服用してやり過ごしたが、22日の朝、鏡を見ると左の頬が昨日の倍ほどに大きく腫れ上がり、口を大きく開ける事もままならなかった。
 痛みはそれほどでもなかったが、その腫れ具合からして尋常ではない事が起こっていると察しが付いた。夜になってから流石に心配になり救急外来へ電話を入れると、明日朝一番に歯科外来へ連絡するようにと告げられた。
 この時、既に入院の予感が脳裏を掠めたので心の準備だけはしておいた。翌朝8時30分丁度に電話を入れると、「腫れてしまいましたか…」と、予想していたかのような返答だった。直ぐに来院する事と入院の可能性もあるとの事だったので、入院グッズをバッグに詰め込み支度を済ませた。
 体重も増えて心不全の兆候もあったが、顎の腫れで救急車を呼ぶ訳にもいかず、かと言って電車で行く元気もなかったのでタクシーを呼んだ。
 歯科外来の待合室にいる時、看護師がやって来て顔の腫れ具合を確かめて行った。1時間ほど待った後、診察室に入るといつもの担当医が「かんべさん、ごめんなさいね…」と頭を下げて来た。担当医はわたしが心不全を繰り返し何度も入院している事を知っているし、心臓の事を気遣ってこれまで歯の治療をしてくれていたのだが、今回の腫れを起こした炎症が心不全の切っ掛けにもなっているのだろうと責任を感じている様子に見えた。
 「入院になりますので、内科と連携して治療に当たります…」
 昨年と同様に12階の一般病棟へと緊急入院、心不全も併発している事から、担当医は歯科と内科の二人が付いた。左蜂窩織炎(ほうかしきえん)での入院となる為、循環器ではなく、一般内科のようであるが、治療方針は前回と同様、ヘパリンに加え抗生剤点滴、そして体重を落とす為に利尿剤のラシックス投与となり、先ずは「左蜂窩織炎」と心不全の治療が優先される事となった。
 炎症を起こしている部分や歯全体の検査をした結果、残存不可能な奥歯が親知らずも含め3本ある事が分かりその3本とも抜歯しなくてはならず、炎症が収まり心不全が軽快した時点で抜歯手術を受ける事となった。
 2月5日、心不全が軽快した為、一旦内科を事務手続き上退院となり、翌日6日に病棟もベッドもそのままで今度は歯科・口腔外科での再入院となる。手術は6日の夕方5時頃を予定していたが、2時間ほど早まり午後3時半頃に手術室からお呼びが掛かった。
 薄いブルーの手術着に着替え、点滴のヘパリンは外して車椅子で看護師一人に付き添われ7階にある中央手術室へと向かった。手術室へ入るのはこの病院で「僧帽弁置換術」を受けて以来26年振りの事となるが、今回は意識を完全に保ったままの入室である。
 7階入口に到着すると、執刀医や麻酔科医、手術室看護師ら数人が笑顔で出迎えてくれた。その横には既に手術を終えた患者が一人、ストレッチャーに乗せられて病棟へと戻る所であった。ドアが開き中へと入って行く。
 物々し医療器材があちこちに見受けられたが、そこから更に部屋が幾つかに別れており、私はその中の第9手術室へと運ばれた。約15畳ほどあるかと思われる空間の丁度真ん中辺りに小さな手術台があり、その上から手術用の照明器具である「無影灯」が満月の様に白く輝いていた。
 その周りを囲うように立ち並ぶ医療器材の数々はどれも見覚えのあるものばかりだったが、人工心肺だけは見当たらなった。車椅子からその小さく狭い手術台へと移り、仰向けになった。顔が動かぬ様に頭の部分が枕で固定され目隠しをされた後、口の部分だけが大きく開いた布らしき物が顔に被せられた。
 バイタルチェックの準備も整い、執刀医や第一助手が優しく声を掛けて来る。
 「麻酔を数本打ちますからね~、ちょっと痛いけど御免なさいね…」
 「直ぐ傍にスタッフがいますから何かあれば合図して下さいね」
 「メリメリ、ミシミシ…」「はーい、一歩抜けました」それは想像していたより遥かに容易く抜けてくれたようで安心したのと、ワーファリンの影響でかなり出血するのではと不安が募るばかりであったが、そんな不安も取り越し苦労に終わってくれた。
 続けざまに、2本3本とトラブルもなく予想時間の2時間を大幅に短縮して抜歯手術は終わった。
 「麻酔が切れるとかなり痛みますよね…」私はその後の事が気になっていたので訊いてみた。
 第一助手が抜いた歯を3本小さなケースに入れて渡しながら言った。
 「48時間が痛みのピークです、個人差はありますが痛み止めもありますから…」
 私は抜けた自分の歯を見詰めながら、小さく頷くと車椅子に移り「これからが大変かな?」と独り言を呟いた。部屋の外に出ると病棟の看護師が笑顔で待っていた。
 「随分早く終わりましたね~、出血も殆どなくて良かったですね~」
 「想像していたより簡単に終わってくれたみたいで安心したよー」と私も笑顔で言葉を返した。ベッドに戻り暫くすると抜いた部分にジワジワと鈍痛が走り出した。様子を伺いに来た看護師にすかさず痛み止めをお願いした。処方された痛み止めは私が予想していたロキソニン等と違って「カロナール」と言う薬だった。それを2錠服用し痛みの去るのを待ったが、時間が経っても一向に痛みは治まらない。
 薬が効かない事を告げると次は「ペンタジン」の点滴が始まった。抗生剤の「ヒクシリン」も始まっていたので、点滴瓶を2本ぶら下げる事となった。然し、そのペンタジンも効果がなく痛みは治まってくれない。
 その内に今まで出血していなかった傷口から夥しい出血が始まる。殆どの患者が寝静まっている病棟で、私だけが痛みと出血に悩まされ続けていた。止血はガーゼを傷口に押し当てるしか方法がない。然し、痛みでガーゼをまともに噛む事すら出来ず、うがいとガーゼ交換でまる二日眠る事が出来なかった。
 ガーゼが役に立たない事から、抜いた部分を型どって透明の止血プレートを作り、それを被せて漸く出血は収まって行ったが、出血の原因は痛みにより血圧が急激に上昇した為であった。痛み止めの定番と言えば、ロキソニンやボルタレン座薬であるが、腎機能が低下している私にはそれを使えない為、それに代わる痛み止めを何種類か試したが結局どれも役立たず、最後の手段として「モルヒネ」の投与となった。
 まさか此処で「モルヒネ」のお世話になるとは想像だにしていなかったが、さすが「麻薬」だけの事はあり、その効き目は抜群で、それまでの痛みが嘘の様に跡形もなく消えて行った。然し、内科の担当医はそのモルヒネを使うにあたり、かなり慎重で中々首を縦に振ってはくれなかった。
 痛みが去ってしまうと抜歯後の回復も早く、体調を見て抜糸した後に退院となる筈だったが、結局抜糸は次回外来時に行う事となり、東京に二度目の大雪が降り始めた14日の午前中に退院となった。心不全から開放され、息切れもなく足取り軽くいつもの道を闊歩し、途中好きな「神田川」で記念撮影をして普通に歩く事の出来る有り難さを満喫しながらそぼ降る雪の中を家路へと急いだ。
 結局の所、今年も例年通りの入院で始まってしまったが、それでも生きている喜びを噛み締めて、どんな状況下にあっても希望と笑顔は絶やさず前向きで歩んで行きたいと思った。多くの善意ある人たちに背中を押されている自分に気付けば、やはり自分も誰かの背中を押したりさすったりして生きているんだとつくづく思う。
 今回のブログ休止で訪問者の皆さまには大変ご心配をお掛けした事お詫びするとともに、急遽お見舞いに駆け付けて下さった、女流詩人のKさん、後輩の村木剛、そして「茜の海」著者の高林夕子さん、この場を借りてお礼申し上げます。ありがとうございました。

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