ビーチサイドの人魚姫

うつ病回復のきっかけとなった詩集出版、うつ病、不登校、いじめ、引きこもり、虐待などを経験した著者が 迷える人達に心のメッセージを贈る、言葉のかけらを拾い集めてください。

グッバイ、たまねぎりりィ…。

りりィ


 その類まれなるハスキーボイスで聴く者たちを魅了し続けて来た歌手で女優のりりィ(本名・鎌田小恵子)さんが11日、肺がんのため死去。享年64歳だった。
 米軍の将校だった父親と日本人の母親を持つハーフだった事もあり、日本人離れした美貌と音楽センスの良さでデビュー当時からその頭角を現していた。
 1972年アルバム『たまねぎ』でデビューしたが、当時はデビュー作がアルバムと言うのは非常に珍しい事でもあった。その2年後の74年に『私は泣いています』が100万枚近いセールスを記録するなど大ヒットして、彼女の名前は世間に広く知れ渡る事となり一気にスターダムに上り詰める事となった。
 女優としても早くからその才能を認められ数多くのドラマや映画に出演し、その場に佇むだけで絵になるなど、台詞が要らないほどの存在感に監督たちは圧倒されていたようである。私は彼女のデビュー作『たまねぎ』に強烈な印象を受けていたため、今でも彼女の事を『たまねぎりりィ』と呼んでいる。
 彼女の歌声を初めて聴いた時、「ジャニス・ジョプリン!」と思わず叫んでしまった。和製ジャニス・ジョプリンと言えば『カルメン・マキ』を思い起こすだろうが、私の中ではりりィ=ジャニスの再来だと思っている。
 そしてまたアングラの女王と呼ばれた『浅川マキ』のブルースが最も似合うのもりりィではないかと思う。近年ではドリカムのヴォーカル吉田美和の義母である事などが話題を呼んでいた。煙草が好きだったと聞いていたので、それが死期を早めてしまったのかと思うと悔やまれてならない。
 64歳と言う年齢は歌・演技に関わらず人生においても円熟味が増し、これから益々活躍出来る年代だっただけにその早すぎる訃報は残念としか言いようがない。ここに謹んで故人のご冥福を心よりお祈り申し上げます(合掌)。

薬物まみれのホームラン。

清原

 毎日のように流れて来る清原和博容疑者逮捕と覚せい剤のニュースを見聞きするにつけ、もう少し早い段階で何かしらの手を打つ事が出来なかったのだろうか?と心が痛むと同時に歯がゆい思いを抱いている。
 西武ライオンズの黄金時代の立役者としてチームを支え、輝かしい成績を残して来た男の逮捕劇は野球界のみならず、各界に衝撃と悲痛な叫びにも似た落胆の声で重苦しい空気に包まれた。
 日本のプロ野球界で、王貞治を超える選手は清原だろうとまで言わしめた球界のスーパースターに一体何が起こったのか、なにゆえ犯罪に手を染めてしまうところまで転落の一途を辿ったのか、その背景に見え隠れする黒い闇に、燃え尽きた男の悲哀が痛々しい。
 野球や相撲といったプロスポーツの世界は、ある意味で一般企業と同様に徹底した管理社会でもある。然しながらそのような管理体制の中にあっても、不祥事を起こす企業が後を絶たないのと同じで、利益を優先する利益至上主義が今もなお根深く蔓延っているからであり、スポーツも娯楽・サービス業とさほど変わらない経済の集合体なのである。
 利益と集客率これこそがスポーツ選手に課せられた最も優先すべき課題であり、そしてまたノルマとも言えるだろう。個々のアスリートたちは勝利と記録更新のために日々の鍛錬に時間を費やし、技術を磨き更に上の頂きを目指すが必ずしも求めていた結果が得られるとは限らない。
 清原の最初の躓きはおそらく強く熱望していた憧れの巨人に入団出来なかった事であろう。その悔しさを西武で爆発させ、スター街道を駆け上がる事となった。然し彼の胸の奥底では巨人の裏切りが許せなかった…。
 一見華やかに見えるプロ野球の世界にも裏の世界があり、それらの駆け引きに翻弄される選手たちはひとつの駒に過ぎないと思うのは私だけだろうか…。2008年の清原引退セレモニーで派手なパフォーマンスを見せた長渕剛も清原から距離を置くようになり、気が付けば彼の周りには親身になって話しを聞く者や進言する者など誰一人存在しなくなり、近づいて来るのは闇社会に生きる者たちばかりとなって行った…。
 野球を失った清原は「裸の王様」だったのか…。桑田真澄氏も語っているように、現役から退いても野球から退く訳ではない。野球を支える側として幾らでもその方向転換は出来た筈である。
 孤立無縁の状態で疎外感と不安の毎日を薬物に頼る、薬物依存という心の病に陥ってしまった彼がこの逮捕を契機に罪の償いを果たし、社会復帰した時には大勢のファンの前で頭を下げ謝罪し、生まれ変わってくれる事を期待するのみである。

さよなら健さん、安らかに…。

高倉健

 11月18日、高倉健さん死去のニュースが列島を駆け巡った。東映がおくる任侠映画の看板スターとして、「網走番外地」「日本侠客伝」などが大ヒットし、シリーズ化され映画スターとしての地位を確実なものとした。
 高倉健さんについては皆さんもよくご存知の事であるから、ここでは私自身と高倉健さんの接点について述べて行きたいと思う。
 健さんを語るにあたり、避けて通れないのが実は私の父「信夫」の存在である。私は今、その「信夫」をモデルとしたノンフィクション小説「網走番外地(仮題)」を執筆中で、第16章まで書き終えており、後は終章を残すのみとなっている。
 大まかなあらすじとしては、府中刑務所を出所し、故郷である藤枝に帰る途中の信夫が、静岡に住んでいる息子に会い、刑務所帰りの父親とそれを迎える息子とのやり取りを、過去の想い出と共に語ると言う設定になっている。
 その小説の中にも僅かではあるが高倉健さんが登場している。さて、話しは49年前に遡る。1965年(昭和40年)、前年に開催された東京オリンピックも大成功に終わり、日本は高度経済成長真っ只中であった。その影響は東京のような大都市だけではなく、地方の町や村にも波及して行った。
 一般的な家庭には「テレビ」「冷蔵庫」「洗濯機」などが普及し、貧しかった戦後の日本の姿は人々の暮らしから消え去り、車道を走る車の台数がその豊かさを象徴する時代でもあった。テレビが娯楽として定着し、ブラウン管から「オバケのQ太郎」「スーパージェッター」「ジャングル大帝」「ザ・ガードマン」など人気番組が続々と登場した。
 当時、私の家にはテレビがなく(一時あったが父が酒代のため質屋にいれてしまった)、自分の好きな番組は近所の家のテレビで楽しんでいた。ある日、学校をずる休みし不貞腐れていると、父が「映画見に行くがとし坊も行くか?」と訊いてきた。
 その時代、一日の小遣いが10円で、映画代は子ども一人80円であり、子どもにとって映画は贅沢な娯楽だったように思う。どんな映画を見るのか聞き返す事もせず、二つ返事で父の後を着いて行った。私以外に父の舎弟分が3人、厳つい肩をなびかせ、平日の昼間に往来の激しい車道を雪駄の音が歩く度にシャリシャリと響いていた。
 私は学校の友だちに見つからないよう、小さくなって父の影に隠れながら歩いた。映画館に着くと、派手な色使いの大きな看板やポスターが飛び込んで来た。「座頭市二段斬り」「昭和残侠伝・唐獅子牡丹」の二本立てであった。
 どんな映画を見るのか期待はしていなかったが、子どもの見る映画ではなかった。2本とも「やくざ」が活躍する任侠映画…。父らしいと言えばそれまでだが、父はスクリーン狭しと暴れ回る高倉健を意識していたかどうか知らないが、髪型も風貌もどことなく健さんに似ていた。
 年を重ね白髪も目立ち始めた高倉健さんを見ると、父が生きていたらきっと健さんのような感じになっていたのかな…と健さんの姿に父の面影を重ねてしまうのである。
 健さんのように父もまたぶきような生き方しか出来なかった…。昭和の時代が産んだ偉大な星がまた一つ、父の想い出と共に消えて行った。
 さよなら健さん、謹んでご冥福をお祈り致します。

新・覚せい剤白書2014。

ヒロポン

 日本の音楽シーンに輝かしい時代を築き上げた人気デュオ『CHAGE and ASKA』。その一人であるASKAアスカ・本名:宮崎重明)容疑者(56)が先日の5月17日、南青山のマンションから出て来たところを待機していた警視庁の捜査員によって逮捕された。
 容疑は覚醒剤取締法違反(所持)であった。逮捕当初は容疑を否認し続けていたが、23日になって容疑を認め、「覚醒剤を使用した事がある」と供述をしているようだ。同時に逮捕された栩内(とちない)香澄美容疑者とは一年ほど前から愛人関係にあったとされており、ASKAの夫婦間に亀裂を生じさせる要因にもなっていたらしい。
 90年代の音楽シーンに絶大な人気を誇ったチャゲ&アスカ。人気ドラマ『101回目のプロポーズ』の主題歌となった『SAY YES』は280万枚と言う記録的なセールスを樹立。その後、彼らの人気は留まるところを知らず、破竹の勢いでレコードセールスを塗り替え、巷ではチャゲアス旋風が巻き起こるほどであった。
 私の記憶を振り返ってみると、彼らは確か7人編成のバンドとして音楽活動を始め、その頃は『チャゲ&飛鳥』と名乗っていた。当時、ヤマハが主催するポピュラーソングコンテスト(通称:ポプコン)が音楽界の登竜門とされており、このコンテストを踏み台にして大きく羽ばたいて行ったミュージシャンは数多く、井上陽水や八神純子、中島みゆきなどもポプコン出身である。
 チャゲ&飛鳥の曲を初めて耳にしたのは、『コッキーポップ』と言うラジオ番組で、『流恋情歌』と言う歌だった。どことなく演歌を思わせる歌詞とメロディが強烈で、私のお気に入りの一曲となった。この流恋情歌で、ポプコンつま恋本選会に出場し入賞を果たした。
 彼らのデビュー曲は『ひとり咲き』であるが、この時は既にバンドではなく、チャゲと飛鳥の二人だけであり、ここから『CHAGE and ASKA』へと栄光と野望のリズムを刻み始めて行く事となる。
 今回の逮捕に至ってはおそらく氷山の一角に過ぎないであろうが、増える事はあっても一向に減らない薬物乱用やそれに付随した事件・事故が多発する中で、当局にしてみればニュースなどマスコミが飛び付くような人物の逮捕がどうしても必要であった。
 アスカ容疑者のような大物歌手を逮捕する事によって、事件の深刻度を世間にアピールする狙いも当局にはあり、『見せしめ逮捕』とも受け取れる。
 覚せい剤などの違法薬物について時間を少し遡ってみると、国が暗黙の内に使用を認めていた時期がある。日本が軍部の統治下に置かれていた戦時中の事だ。兵士の士気を高める為にヒロポンを使用したり、軍需工場の効率を上げる為、作業員に錠剤を配布するなどして労働時間を大幅に増やし、強制的に作業に就かせていたとも言われている。
 戦争と言う異常事態と狂気に満ちた時代だったから、薬物も必要悪とされていたのかも知れない。一昔前までは若年層に薬物使用が広がり、社会問題にまで発展した経緯がある。ところが、現在ではその若年層よりも40、50代の中高年層に覚せい剤の影が付き纏うようになった。
 社会的・経済的にも安定した年代の人たちが何ゆえ覚せい剤に手を染めてしまうのか、その背景に見え隠れするのは苦悩する大人たちの心の叫びである。管理型社会のストレスは増大する一方で、ストレスの捌け口が見つからない、或いは発散の仕方に戸惑いを覚える中高年たち。金銭的な余裕も手伝って手っ取り早く入手した薬物に身を委ねてしまうと言う、実に危うい覚せい剤の構図が見えて来るのである。
 逮捕されたアスカ容疑者もまた50代の中高年層であり、歌手としての絶頂期も既に過去物語りになりつつある。一度頂点を極めた者にとって、その時代が華やかであればあるほど現状を受け容れがたくなり、ヒット曲からも疎遠になればなるほど焦燥感に苛まされ、眠れない夜が何日も続く事となる。
 もう一度夢を実現しようと思っても、曲作りのイメージが浮かんで来ず、その結果薬物の力を借りる事となり、気が付けばその薬物地獄から抜け出せなくなってしまうと言った、薬物依存のループに嵌り込んでしまうのだろう。
 歌手は必ずしもヒット曲を出す必要がある訳ではない。もちろん歌がヒットし、有名になりファンも増えて来れば大スターの舞台を歩む事は容易くなるだろう。然し、それよりもある一曲を数十年と長く歌い続ける、歌い継がれて行く事こそが、本来の歌い手と呼べるのではないだろうか。
 人の心を揺さぶり、いつまでも心の中に残る曲が一曲あれば、ヒット曲に恵まれなくとも名歌手・名曲として音楽の歴史に名を残す事が出来る筈である。


千代子だよ、おっ母さん。

島倉千代子

 大衆に最も愛され続けた昭和の時代を代表する歌手の一人、島倉千代子さん(75)が、先日の8日に肝臓がんのため死去した。
 島倉千代子さんについてここで多くを語る必要もないだろうが、実はわたし自身が島倉さんに個人的思い入れがある。それはわたしの母の妹である倭江(まさえ)叔母さんの顔が島倉さんによく似ていたからである。
 島倉さんを初めて見たのは8歳の頃だったと記憶している。その頃のテレビ番組の中でも、音楽番組として最も人気の高かった『ロッテ 歌のアルバム』に、島倉千代子さんと守屋浩さんがデュエットで出演し、「星空に両手を」という曲を歌っていた。
 昭和の名司会者である玉置浩さんが、番組の冒頭にロッテのCMソングである「小さな瞳」がBGMとして流れる中で「お口の恋人、ロッテ提供…」そして流行語にもなった「1週間のご無沙汰でした。玉置でございます」で番組は始まるのだが、そのナレーションは当時の子どもたちの間でも人気で物真似をする者が続出していた。
 島倉さんと守屋浩のデュエットは、島倉さん自身が強く希望した為に実現したのであるが、当時、甘い歌声の男性人気歌手として多くの女性ファンを魅了した彼を島倉さんが口説き落として実現した「夢のデュエット」として話題をさらっていた。
 その番組で島倉さんを見た時に、「誰かに似ているなぁ…?」と思い、浮かんで来たのが倭江叔母さんであった。母ではなく叔母を連想したのは、自分の中に母の存在が殆どなかったからだと思う。写真でしか母の顔は知らなかったし、いつもわたしを可愛がってくれたのが倭江叔母さんだったから…。
 その叔母は長い間、精神病院に入院していたが、病院を脱走して行方不明になったままである。生きているのか死んでしまったかそれすら分からない。
 だから、島倉さんをテレビで見る度に今でもその叔母の顔を思い出す。島倉さんの言うとおり、人生いろいろであるが、わたしの周りは余りにも色々あり過ぎて「人生いろはにほへと」である。
 「俊樹だよ、おっ母さん」と言って、母を東京に招きたかった…。
 慎んで島倉千代子さんのご冥福を心よりお祈り申し上げます。

アンパンマンからの贈り物。

アンパンマン

 国民的キャラクターとして子どもから大人まで幅広いファン層に絶大な人気を誇った「アンパンマン」の生みの親である「やなせたかし(本名:柳瀬 嵩 94歳)」さんが、先日の13日に心不全のため亡くなった。
 心不全の症状が出ていた為ブログを暫く休止していたのだが、やなせたかしさんの死因が心不全と言う事であり心なしか穏やかではなかったが、94歳と言う年齢を考えれば大往生ではなかったかと思う。
 日本漫画家協会の理事長を長く努め、漫画家・絵本作家・イラストレーター・歌手・詩人と多くの肩書きを持つやなせさんと初めて出会ったのはわたしが16歳の時だった。
 当時、みつはしちかこさんの「小さな恋のものがたり(チッチとサリー)詩画集」が女子中高生の間でブームとなっており、静岡の書店でも飛ぶように売れていたと記憶している。この頃、わたしはまだ詩を書くと言うまでには至っていなかったが、手紙を書くのが一つの趣味となっていたため、何人かの相手と「文通」をしていた。
 気に入った女性相手にはやはり気の利いた言葉を綴りたいと思っていたので、そのヒントを得る為に何冊かの本に目を通していた。そんな中で一際目立っていたのがサンリオから出版されていた『詩とメルヘン』であった。
 『詩とメルヘン』はやなせたかしさんが編集を担当した文芸雑誌で、一般人が投稿した詩やメルヘンにイラストレーターたちが挿絵をつけるという画期的な雑誌であり人気を博していた。わたしも何冊か購入し文通の手助けとしてお世話になっている。
 やなせたかしさんは上記の肩書き以外にも多彩な経歴があり、作詞・作曲も手掛け多分野で活躍しその才能を発揮している。作詞では『手のひらを太陽に』が代表作品である事は誰もが知るところであるが、「アンパンマン」以前には現在のようにそれほど注目を浴びるには至らなかった。
 アンパンマンが初めて登場したのは1969年であるが、その頃のアンパンマンは普通の人間と同じ姿であり、現在のそれとは大きく異なっていた。子どもだったわたしの記憶に全く残っていないのは、大人向けの絵本「こどもの絵本」に掲載されていたからだと思うが、当時、親だった人たちの記憶には残っているかも知れない。
 アンパンマンがどのような経緯を辿って現在の人気キャラクターになったのか、アンパンマン生誕44年と言う長い過去を紐解いてみるのも良いかも知れないが、忘れてならないのは「空腹の人にパンを届ける」と言う骨子が誕生から現在まで変わる事なく貫かれている事であろう。
 やなせさん自身が語っているように「本当の正義の味方は、戦うより先に、飢える子供にパンを分け与えて助ける人だろう、と。そんなヒーローをつくろうと思った」は、やなせさんの戦争体験が背景になっているものと思われる。
 食料の乏しい戦地での過酷な体験により、人間にとって最も辛いのは「飢え」であると言い切るやなせさんの言葉は「命の継続」が如何に大切かを教えてくれているのではなだろうか。
 遅咲きのヒーロー「アンパンマン」はこれからもわたしたちに愛と勇気を教えてくれるに違いない。
 謹んでやなせたかしさんのご冥福を心よりお祈り申し上げます(合掌)。

圭子の昼と夜の顔。

藤圭子

 22日正午、日米通算4,000本安打を達成した「イチロー」の偉業を伝えるニュースで沸き返っていたその矢先に飛び込んで来た一報は俄かに信じ難い内容のものだった。
 「今入って来たニュースです…歌手で宇多田ヒカルさんの母親の藤圭子さんが西新宿のマンション敷地内で倒れているのが見つかり、病院へ搬送されましたが、間もなく死亡しました。関係者によれば、飛び降り自殺を図ったものと思われます。」
 このニュースを聞いた時、わたしは8年前の記憶が生々しく蘇って来たのである。うつ病を克服し、社会復帰を果たしたばかりのわたしは西新宿にある某リース会社に勤めていた。
 昼食を摂る為に外に出てみると、青梅街道沿いにTBS、朝日、日テレ等の報道車が一直線に並んでいる光景が眼に飛び込んで来た。ただ事ではない騒然とした気配に、ビルの窓から身を乗り出して様子を伺っている人も多く見受けられた。
 会社に戻りヤフーで調べてみると「ポール牧自宅マンションから飛び降り自殺」の文字が踊っていた。当時のお笑い番組では高視聴率を維持していた「エンタの神様」にゲスト出演し、「指パッチン」を披露していたばかりだったが、仕事が減り始めた事で悩みうつ状態になりその果ての結果だった。
 人に笑いを提供し元気を与えてくれる「お笑い芸人」その本人が仕事で追い詰められ自ら命を絶つと言う何ともやりきれないニュースであった。
 そして奇しくも同じ場所、日時までもがポール牧さんの時と状況が酷似しており、偶然とは言え巷では同居していた30代男性との関係や他殺説まで飛び交い始めているようだ。
 1969年に「新宿の女」でデビューし、18歳とは思えぬ「大人の女」の魅力と心の底から振り絞るようなハスキーボイスが印象的で、まさに彼女の歌声は「怨歌」だと音楽関係者を言わしめた昭和を代表する歌手の一人であった。
 華やかな芸能界にあって、どこか影の部分も併せ持つ所なども彼女の人気を支えていた。70年に発表した「圭子の夢は夜ひらく」が空前の大ヒットとなり、一躍トップスターに踊り出る事となったが、それ以降も話題の絶えない歌手人生を送っていた。
 わたしは「自殺」と言う言葉に人一倍敏感であるが、それはわたしの母が福島の地で服毒自殺をしている影響が大きい。そしてわたし自身も過去に一度だけ自殺未遂を経験している。
 2003年の丁度今頃の季節だったと記憶している。うつ病になりかけていたわたしは、何日も眠れぬ夜の中でもがき苦しんでいた。睡眠障害はうつ病の最も典型的な症状であるが、当時のわたしはそれを病気と認めたくなかった。つまり自分は「うつ」ではないと決め込んでいたのである。
 それは病気の悪化を招くばかりで、己との葛藤の日々は家族や周囲の人たちも巻き込み、押し寄せるストレスの波に呑み込まれて行くばかりであった。
 家族全員が静かに寝込んだ深夜、処方されていた抗うつ剤と睡眠剤を水ではなくウイスキーで飲んでしまったのである。しかもストレートでコップ一杯分を一気飲みであった。
 アルコールと一緒に睡眠薬を飲む事は非常に危険を伴う事を承知していたが、眠れぬ辛さがそれを上回っており、耐え切れずにアルコールに手を掛けてしまったのである。
 芸能人仲間の間での藤圭子さんの評判は、「忍耐強い」と言う事であったが、それは日本人特有の性質で「美徳」とさえ捉えられている。然し、その裏を返せば「ストレスを内に秘める」体質と言うことになる。
 日本人の自殺者が年間3万人にも及ぶのは、この「内に溜め込むストレス」が要因の一つともなっているのではないだろうか。
 健康体であるならば、スポーツで汗をかいてみたり、好きな趣味に没頭する時間を持てればそれがストレスの捌け口となり、健康的な日常生活を送る事が出来るだろう。
 人は誰しも光と影の部分があり、普段は表向きの昼の顔、然しもう一つは人に知られたくない夜の顔。
芸能界と言う世間一般とはかけ離れた別世界では、その二つの顔が顕著に現れ、時には自分自身を破滅の道に追い込む危険性をも孕んでいるのかも知れない。
 謹んで藤圭子さんのご冥福をお祈り申し上げます(合掌)。

孤高の俳優、三國連太郎。

三國連太郎

 つい先日、坂口良子さんの訃報をお伝えしたばかりだと言うのに、またしても訃報について触れなければならなくなった。
 若い層からお年寄りまで幅広いファン層を持つ、日本を代表する演技派俳優として知られている三國連太郎さんである。
 14日午前9時頃、急性呼吸不全のため都内の病院で90年に及ぶその人生に幕を閉じた。仕事の関係で父親の死に目に会えなかった人気俳優の佐藤浩市さんの言葉は、詰め掛けたマスコミ陣の質問を説き伏せるかのように、涙を見せる事もなく父の死を予感させる内容のものであった。
 日本映画界にその人有りと言われるほど、大きな影響力とその鬼気迫る存在感は三國さんをおいて他にはいないのではないだろうか。
 飢餓海峡などの社会派ドラマから時代劇、そして『ビッグコミックオリジナル』に連載中の釣り漫画である『釣りバカ日誌』の実写版などコミカルな内容のドラマにまで活躍の場は非常に幅広く多岐に渡っている。
 三國さんの私生活については様々な噂や憶測などが昔から飛び交っているが、それもまた人並み外れた余りにも個性的すぎる故のものであろう。
 結婚を4回も経験しているその背景には、実生活を犠牲にしてまで俳優の道に我を忘れてその情熱を注いだ結果なのだと思える。
 生活や家族を犠牲にすると言うのは決して褒められた事ではないが、三國さんの人生そのものがスクリーンの中でしか生きられない、居場所がそこにしか無いと言う謂わば俳優としての孤独をわたしは感じ取ったのだが…。
 三國さんが出演している映画やドラマは余りにも多く、その代表作品をわたしは決めかねているが、どうしてもわすれらない映画が一本だけある。
 1979年4月に劇場公開された松竹映画『復讐するは我にあり』である。この作品は実際に起こった『西口彰事件』を題材にした、佐木隆三の長編小説が元になっており、5人を殺害し約2ヶ月半に渡り逃亡し続け、1964年に逃亡先の熊本県で逮捕され、43歳で処刑された犯罪者の犯行の軌跡とその人間像を深く掘り下げた作品となっている。
 主演は今は亡き名優の一人である『緒方拳』。その緒方拳扮する犯人役『榎津巌』の父親が三國連太郎さんが扮した『榎津鎮雄』だったと記憶している。
 確か犯人の嫁である倍賞美津子さん扮する『榎津加津子』と三國連太郎さんとの強烈な濡れ場シーンも鮮明に覚えているが、妖艶な色気をさり気なく見せる倍賞美津子さんもまた日本を代表する女優の一人である。
 実際の殺人現場の一つとなったのは浜松市内のあるアパートであり、この頃わたしも友人のいる浜松へと足をよく運ぶ機会があり、この作品も浜松市内の映画館で友人と二人で見ていることから、この作品により一層没頭する事が出来た。
 そして何より鮮明に記憶している場面がラストシーンである。処刑され遺骨となった息子の骨壷を両手で抱え込む父親の榎津鎮雄が骨壷の蓋を開け、息子の骨を一掴みすると口一杯に頬張り「ボリボリ」と音を立てながら食べてしまうのである。
 そして山の絶壁から空に向かって骨を放り投げる…。映画はその空間に散らばった榎津巌の骨のシーンで終わりを告げる。
 このラストシーンで三國さんの台詞までは思い出せないが、台詞自体があったのかどうか、台詞など要せぬほどに三國さんの鬼気迫る迫真の演技にわたしは圧倒されていた…。
 ここに謹んで三國連太郎さんのご冥福をお祈り申し上げます(合掌)。

グッドバイ・ママ(坂口良子さんを偲んで)。

坂口良子

 女優の坂口良子さんが先月27日、57歳と言う女優としては円熟味が醸し出される年齢で惜しくも息を引き取った。
 彼女の命を奪った病魔は、横行結腸がん(大腸がん)による肺炎であった。昨年、永かった春にピリオドを打つ形でプロゴルファーの尾崎建夫さんと再婚したばかりである。
 結婚と言う幸せを一気に引き寄せ、仲睦まじい夫婦愛を育んでいた矢先の出来事に、夫である建夫さんの心情を思うと言葉が見つからない。
 坂口良子さんはこれまで数多くのテレビドラマで活躍して来たが、わたしの脳裏に最も焼き付いているドラマは『グッドバイ・ママ』である。
 1976年TBS系列で放映され、木曜夜の9時(ゴールデンタイム)で、視聴者の心を釘付けにし涙を誘うそのストーリーに、ジャニス・イアンが歌う主題歌『ラブ・イズ・ブラインド~恋は盲目~』が更にドラマを引き立てていた。
 このドラマのストーリーは、未婚の母である坂口さん演じる主人公が、ある日を境に自分が不治の病(白血病)である事を知ってしまい、自らの寿命を我が子に全て捧げると言う『愛の物語』であった。
 特にラストシーンは涙なくして見ることは出来ず、いま思い出しても目頭が熱くなって来る。娘の誕生日にケーキを買ったものの、激しい雨が降り注ぐバス停で誰にも看取られる事なしに家まで後僅かと言うところで息を引き取ってしまう…。
 娘は何も知らずに無情の雨が降り続く中で、ただひたすら母親を待ち続けると言う壮絶なシーンが視聴者の印象に深く残ったドラマであった。
 まるでこのドラマを再現したかのように逝ってしまった坂口良子さん、余りにも早すぎる彼女の死に多くのファンが心を痛めたであろう事は察しがつく。
 ここに謹んで彼女のご冥福をお祈り申し上げます。

歌舞伎の概念を覆した男。

中村勘三郎

 12月5日、体調を崩しベッドに臥せっていた。昼時、テレビの電源を入れると飛び込んで来た「中村勘三郎さん死去」のニュース。
 まさかとは思ったが、それは紛れもない事実であった。中村さんは確か12時間にも及ぶ食道がんの手術も成功し、回復の途上にあった筈である。
 そのような大手術にも耐え抜く体力と気力を持ち合わせながら何故、亡くなってしまったのかとその死因について疑問が残るばかりであったが、ニュースの詳細に耳を傾けている内に、直接の死因が癌ではないことが分かったが、それはあまり聞き慣れない病名だった。
 急性呼吸窮迫症候群(ARDS)を簡潔に言ってしまえば「肺炎」が悪化した状態であるが、肺炎が原因で死亡する患者の殆どは体力、抵抗力の弱ったかなりの高齢者の場合が多い。
 順調に回復し院内を歩くまでになり、退院する日も時間の問題と思われていた筈なのに、そんな中村さんの身に一体何が起きたのであろうか。
 病魔は影を潜めつつ足音さえ立てずに忍び寄て来る。まるで弱い者いじめの様にその対象を見つけると瞬く間にとり憑いて来ては、死の淵へと追いやって行く。
 闘病は生きる為の病との闘いであるが、時としてそれは生きる為ではなく死ぬ為に生かされる場合もある。
 わたしの親友も数年前に食道がんで他界したが、彼は余命3ヶ月を約半年延ばして逝った。彼との最後の言葉は「近い内にまた会おう」だった。
 彼との約束を果たせぬまま、わたしはいまだに彼の携帯の番号を残したままである。40年以上に渡り心臓病と闘っているわたしであるが、余りにもそれが長すぎると闘病そのものが生活の一部に溶け込んでしまい自分が病人だと気付かない時さえある。それが幸か不幸かは別として。
 歌舞伎の世界に新風を吹き込み常に歌舞伎の立役者だった中村勘三郎さんは、幅広い芸風で歌舞伎の世界だけに留まらずあらゆるメディアを通してそのエネルギッシュな姿を思う存分に発揮し、わたしたちを大いに楽しませ感動を与え続けてくれた。
 日本だけでなく中村さんの歌舞伎は世界にまで羽根を伸ばし、アメリカ、ドイツ、ルーマニアなどで公演し大成功を収めている。
 歴史の長い歌舞伎の伝統を継承しつつ、常に斬新なスタイルで見る者たちを魅了して行くその姿は、歌舞伎界の開拓者とも言えるのである。
 最後の舞台は2012年7月まつもと市民芸術館で行われた「天日坊」の千秋楽に源頼朝役で出演したのが最後であった。
 わたしは取り立てて歌舞伎に詳しい訳ではないが、静と動の織り成すその融合的美学の真髄がこの歌舞伎に在ると思っている。日本の歴史的美学の代表である歌舞伎は、鎌倉・室町時代に大成した狂言や能と同じように江戸時代に花開いた演劇である。
 「歌」は音楽、「舞」は舞踊、そして「技」は演技・演出となっており、まさしくこの三大要素の集大成が歌舞伎であり、総合芸術として完結されている。
 日本では最も古い歌舞伎の歴史を受け継いでいるのが中村座であり、亡くなった中村勘三郎さんは18代目勘三郎でもあった。
 中村さんがARDSに陥った時、病院を2回も転院するなど、医療スタッフも何とかこの国宝級の患者の命を繋ぎ止めようと必死であっただろうことは想像が付く。
 然し、死の魔手はそう容易く中村さんの身体から離れて行ってはくれなかった。それにしてもまだ57歳と言う年齢は余りにも早すぎる。これからまだまだ活躍する場は幾らでもあっただろうし、わたしたちもまたそれを望んでいた筈である。
 つい最近、森光子さんの訃報について記事を書いたばかりだと言うのに、こうして再び悲しい知らせを耳にすると、凍える冬の彼方から中村さんの慟哭が聞こえて来るような気がしてならない。最も無念だったのは中村勘三郎本人だったに違いない。
 謹んで中村勘三郎さんのご冥福をお祈り申し上げます。

女優が舞台を降りる時(追悼:森光子さん)。

森光子

 人生を一つの舞台として捉えれば、わたしたちもまた自分の人生を演じている訳であるが、何れそのステージから降りなくてはならない時期が来る。
 それが「死」をもって人生の完結とするかは人によって捉え方は様々であるが、自分がどのような舞台を踏んで来たかによって故人が人々に与える影響は大きく、死後も尚その舞台があたかも魂を得たかのように存在しているのは間違いないだろう。
 先日10日に肺炎による心不全でこの世を去った女優の森光子さん(92)は、激動の昭和と平成の時代を70年に渡り生き抜いた偉大なる女優の一人である。
 彼女の芸歴やこれまでの活躍などをこのページだけで語り尽くせるものではないが、わたし個人としてみた女優「森光子」を語ってみたいと思う。
 先に亡くなった大滝秀治さんが、「名脇役」と知られているように、彼女もまた脇役からのスタートだったようである。
 70年という長さを省みれば、日本に於ける戦争の歴史をある程度紐解く必要があるだろう。1937年に勃発した日中戦争の影響もある中、当時の映画製作が激減した事などにより、歌手を志望し1941年に上京。
 戦火の拡大が本土を超えて中国大陸など各地に飛び火して行く中、藤山一郎、田端義夫、淡谷のり子らと同じステージに立ち、戦地慰問なども経験している。
 わたしはもちろん年代的に言っても彼女の歌を一度も聴いてはいないが、戦後は進駐軍などの施設でジャズやアメリカン歌謡などを歌っていたようである。
 この様に若い頃からの様々な経験や体験によって現在の「森光子」が誕生した訳であるが、彼女の女優デビューは決して楽観的なものではなかった。
 彼女の名を最もポピュラーにしたのが言わずと知れた「時間ですよ」である。わたしと同期の年代の方たちであれば皆そう思う筈。
 わたしの見た「時間ですよ」は、1970~1973年に渡りTBS系列で放映されたものであり、この人気ドラマの中で女将さん役が大当たりし一躍彼女の名がお茶の間を賑わすようになり、一般視聴者にまで知れ渡る事となった。
 「おかみさん時間ですよ」で始まるこの愉快なドラマからは多くの人気タレントや歌手が誕生しており、わたしの青春時代の一ページを飾ってくれている。
 堺正章を始め、悠木千帆(樹木希林)、天地真理、そしてわたしが最も好きだったタレントの浅田美代子が「赤い風船」でデビューしたのもこの番組だったと記憶している。
 国民的人気番組の主人公として森光子はお茶の間に欠かせない存在となったが、やはり本業はブラウン管の中ではなく、舞台女優と言うことだったのだろう。
 それは「放浪記」との出会いによって確立されたものに成長して行く事となるが、彼女がエンターティナーと呼ばれる所以は舞台だけでなく映画、テレビドラマ、バラエティショーなど数多くの場面で培われて行ったその芸風にあるのだとわたしは思う。
 病床にあっても尚、舞台に立つ事を諦めず、生涯現役を貫いた役者魂は多くのファンや後輩たちの心を熱く揺さぶるものであった。
 時を同じくして亡くなった政治評論家の三宅久之さんや、そしてまた治療の甲斐も虚しく亡くなった桑名正博さんのお二方の分も含めて心よりご冥福をお祈り致します。

その人生に脇役あり。

大滝

 映画やドラマの中心にいる訳ではないが、その俳優が存在しなければストーリーそのものが成り立たなかった。
 俳優として数多くの作品に惜しげもなくその資質を発揮した「大滝秀治」さんが、2日の午後に肺扁平上皮がんの為、都内の自宅で亡くなった。
 つい先日にも女優の「馬渕晴子」さんが、やはり肺がんのため亡くなったばかりである。馬渕さんは、女優として日本で初めて自分のヌードを公開するなどして、女性解放の一役を担っている面もあったが、やはり大滝さんと同様に、名脇役の一人として高い評価を受けていた。
 大滝さんは、悪役から政治家、刑事役など幅広く様々なドラマ、舞台、映画などでその滋味深い演技をさり気なく醸し出し、存在感たっぷりの名脇役だった。
 彼は、若い頃から老け顔でそれに伴って俳優の人生を左右すると言われる「声質」についても、決して褒められたものではなく当時から「悪声」と呼ばれており、その二つの個性により、ドラマの中心的存在に位置する事がなく、常に「脇役」と言う、俳優生活に取ってみれば「付けたし」のような部分に甘んじてはいたが、その個性を持ち前にし独特のキャラクターを創り出し、結果的に成功を収めている。
 わたしの中で、最も印象深かったのはやはり名作「北の国から」で演じた「北村清吉」。普段は朴訥で殆ど口を聞かない清吉であったが、時には周りの者たちをねじ伏せてしまうほどの説得力と存在感をその個性に重ねて表現していた。
 今年6月に他界した「地井武男」さんもまた名脇役の一人だったのかも知れない。大滝さんの訃報で、「北の国から」に出演していた役者が二人亡くなってしまい、このドラマの筋書きに二人の運命を重ね合わせてしまう人も多いのではないだろうか。
 全ての人の人生に於いて、主人公(主役)は常に「あなた」、「自分」であるが、その影には多くの「脇役」が存在している事を忘れてはならない。
 そしてまた、あなた自身も「脇役」である事が心の中に存在していて欲しいと思う。自分を支えてくれる人たちと、自分もまた誰かを支えているのだと言う事、それこそが人生そのもだと思っている。
 あなたの周りには何人の脇役がいますか?あなたは誰かの脇役になっていますか?「名」が付く必要はない、さり気なく気付かれなくともあなたの大切な人の支えになっていて欲しい。

モスラからの伝言(伊藤エミ追悼)。

モスラ

 先ず初めに、名司会者でありマルチタレントだった『小野ヤスシ』さん、そして「ちい散歩」でお馴染の個性派俳優『地井武男』さん(「北の国から」で中畑役の彼が大好きだった)このお二人のご冥福を心よりお祈り申し上げます。
 本来であれば、個々の記事を綴りたいところではあるが、自分としては最も思い入れのある伊藤エミさん(ザ・ピーナツ)の訃報について触れてみたいと思う。
 1960年代の歌謡界に於いて、その時代の寵児となった『ザ・ピーナツ』。「恋のバカンス」「恋のフーガ」など数多くのヒット曲を世に送り出した双子デュオである。
 その姉である『伊藤エミ』さん(71歳)が他界した。死因などは明らかにされていないが、末期がんだったと思われる。
 わたしは、ザ・ピーナツの歌う『モスラの歌』『インファントの娘』が大好きで、子どもの頃はよく口ずさんでいたし、今でもフルコーラスを歌う事が出来る。
 怪獣ブームの先駆けとなった東宝映画の代表作『ゴジラ』『空の大怪獣ラドン』『モスラ』『キングコング対ゴジラ』『モスラ対ゴジラ』などは、当時の子どもたちに無限の夢と空想を与え、娯楽としての怪獣映画が定着した時代でもあった。
 小学生時代のわたしはいじめられっ子で、当時の様子を思い出したくもないほどであるが、そんなわたしに付いたあだ名が『怪獣博士』だった。
 普段は教室の隅で出来るだけ目立たず小さくなっていたが、怪獣の話題になると「怪獣の事なら神戸君に聞け」と言われ、その時だけわたしはクラスの人気者になり、ヒーロー気分を味わう事が出来た。
 怪獣の名前や特徴を全て暗記しており、架空のものだけでなく恐竜などについても詳しく、学術名やその特徴までも記憶していたからである。
 漫画を描く事も好きで得意なゴジラやモスラなど机の上や教科書、ノートに至るまで描けるスペースのある所は全て怪獣の絵で埋め尽くされていた。
 父が府中刑務所に服役中だった時、「ザ・ピーナツが慰問に来た」と教えてくれたりしたので、「刑務所って大スターに会えるんだ、いいなぁ」などと思ったものである。
 伊藤エミさんは、1975年に沢田研二さんと結婚しそれを機に芸能界を引退。それ以後ザ・ピーナツの姿をTVなどで見掛ける事はなくなった。
 結婚の数年後には長男を授かるなど円満な結婚生活を送っていると思われたが、沢田と女優の田中裕子の間で不倫愛が発覚、1987年に協議離婚しているが、最後まで沢田姓を貫いたのは子どもの事が背景にあったからであろう。
 ザ・ピーナツでもう一つ忘れてならないのが1961年~1972年にかけて放映されたバラエティ番組の『シャボン玉ホリデー』である。
 ハナ肇とクレイジーキャッツをメインに、コント、歌、トークなどでお茶の間の人気を独占、この番組から誕生した歌手の代表が『布施明』や『伊東ゆかり』ではないだろうか。
 番組のエンディングでザ・ピーナツが歌う『スターダスト』の音色に酔いしれながら、ハナ肇の毒舌じみたコントに肘鉄を食らわす2人の姿を見るのも楽しみだった。
 きっと今頃は天国でハナ肇に肘鉄を一発お見舞いしているのではないだろうか…。心よりご冥福をお祈り致します(合掌)。

和製トム・ジョーンズ逝く。

尾崎

 尾崎紀世彦(享年69歳)、『別れのその訳は話したくない』とそれだけ告げて逝ってしまった。先日、老衰のため100歳で亡くなった映画監督の新藤兼人さんについて記事を書こうと思っていた矢先、『歌手の尾崎紀世彦さんが、肝臓がんのため都内の病院で死去した』というニュースに驚きを隠せなかった。
 国外では、ドナ・サマーやロビン・ギブと言った有名ミュージシャンンたちが、やはり癌のため他界したばかりである。
 今年の4月に『失踪騒動』で話題になっていた事から、まさか死に至るほど健康状態が悪化していたなどと想像もしていなかっただけに、この突然の訃報はまさに『寝耳に水』であった。
 日本の音楽シーンに於いて、歌の上手い男性歌手と言えば、松崎しげるや布施明などであるが、彼ほどの卓越した歌唱力を持つヴォーカリストはそういるものではない。
 父親がイギリス人の血を引いており、彼自身は純粋な日本人ではない部分が日本人離れしたスケールの大きさを醸し出しているのかも知れない。
 トレードマークの長いもみあげや彫りの深いマスクは、どこかフランス人俳優の持つ男の色気にも通じるほど異国情緒をたっぷりと漂わせていた。
 昭和生まれの人であれば、誰もが知っている彼の代表曲『また逢う日まで』は、1971年に100万枚を売り上げるなど、第13回レコード大賞・日本歌謡大賞を受賞し、尾崎紀世彦の地位を不動のものとした。
 歌の世界も含め芸能界で生き抜いて行くには人気・実力そして運も必要となって来るだろう。一見華やかに見えるその世界には、人の眼に晒したくない世界も必ず存在する。
 十分過ぎるほどの実力を持ちながら、荒んだ私生活が足枷となりその実力が発揮されない場合も多々ある。
 尾崎紀世彦もおそらくその類いに入るのではないだろうか。無類の酒好きで、アルコール依存に悩まされていたと聞いている。
 その酒がいつしか彼の身体を蝕んでいた。病魔は音も立てずに忍び寄り、やがて死の淵へと彼を追いやった。
 歌手が声も思うように出せず歌えなくなってしまったら、その時点でもう歌手ではない。それは彼にとって人生の終わりを意味するものであったのかも知れない。
 ふたりで閉める筈のドアをひとりで閉め、ふたりで消す筈の名前をひとりで消してしまった。人は皆ひとりで死んでいく『また逢う日まで』がこんなに孤独な歌だったんだと思い知らされたような気がしている(合掌)。

生活保護は蜜の味。

不正受給

 一度生活保護に頼ってしまうと、容易にそこから抜け出せなくなってしまう。それが現代社会に於ける生活保護の現状であり、その意味から言って生活保護は覚せい剤や麻薬と大差ないのである。
 一部の週刊誌の記事がきっかけになり、人気お笑いコンビ(次長課長)の河本準一氏が先日、母親の生活保護受給について数十分に及ぶ謝罪会見を行った。
 苦渋に満ちた沈痛な表情を浮かべながら辿々しい口調で言葉を確かめるように、母親の受給に至る経緯などを説明。
 浮き沈みの激しい芸人は一般サラリーマンと違って、安定した収入は保障されない厳しい世界である。お笑い芸人ともなれば下積み時代が長く河本氏自身もその辺りについて弁明しているが、芸人として成功を収めた後も尚、母親の受給が続いていた事が不正受給にあたるのではないかという点が問題にになり、国会にもこの件が取り上げられるなど、現在の生活保護の在り方に大きく影響を及ぼすのは必至であろう。
 生活保護受給者が急増し、その費用が年間3兆円を超すと言う異常ぶりを招いた背景には、現代社会が抱える深い闇が存在している。
 華々しい経済成長に浮かれ、札束が舞い散る時代はバブル崩壊とともに弾け散り、相次ぐ企業の倒産や社員切り捨てのリストラ時代に突入し、巷には失業者や家を失い帰る場所のないホームレスで溢れかえり、企業の雇用形態も派遣、契約社員などへと大きく変化した。
 景気回復の兆しが一向に見えない中で企業の雇用率は低迷の一途を辿り、将来に希望を見出せない若者の引きこもりや自殺が急増。
 働く意欲を失った者たちが生活保護に群がり、そしてまたそれに拍車をかけたのが低賃金である。弱者救済と貧困層の為のセイフティーネットである筈の生活保護がいつしか、ある者にとって安住の地へと生まれ変わってしまい、更なる労働意欲を低下させる要因となっているのも事実である。
 わたしは子どもの頃に生活保護を受けていた時代がある。父親がアルコール依存で一定の職に就く事もなく、遊び人でやくざ者だった事から家庭環境は荒れ放題。
 唯一の収入は間借りしていたカメラ店からの家賃3千円のみ。昭和30年代の事だからそれでも3千円あれば親子二人なんとか生活は出来たが、その貴重な金を父は全て酒に変えてしまった。わたしの胃袋はいつも空っぽで、栄養失調寸前にまで至った事もあった。
 生活保護を親から申し出た訳ではなく、福祉事務所の役人が見るに見かねて声を掛けて来たのである。孤児院へ入れると言う話まであったが、それはわたし自身が断った。何故ならわたしは父と離れたくなかったからである。
 然しながらその生活保護費も父の酒代になってしまい、結局わたしの空腹を満たす糧にはならなかった。心臓病になってしまったのも父のせいであると言ってよいだろう。
 学校から『心臓弁膜症』との通知が来たにも関わらず、その通知を父はごみ箱に捨て去ったのである。漸く医者に掛かれたのは病気発症の2年後、小学6年の時で、鼻血が大量に出て止まらず救急車を呼んだのがきっかけであった。
 わたしは入院生活がすっかり気に入ってしまい、退院を拒んだものである。一日3回食事が出来、看護婦さんたちは皆とても優しく、わたしはそこで初めて女性の愛情というものを味わったのである。
 生活保護が本来の機能を取り戻すには社会全体の意識改革が必要となるであろう。『生活保護は蜜の味』となってしまわぬよう健全な社会生活が望まれる事だけは確かである。

プロフィール

俊樹

Author:俊樹
本名/神戸俊樹
静岡県藤枝市出身。
19歳の時に受けた心臓手術を切っ掛けに詩を書き始める。
2005年3月詩集天国の地図を文芸社より出版、全国デビューを果たす。
うつ病回復をきっかけに詩の創作を再開800篇を超える作品が出来上がっている。
長編小説「届かなかった僕の歌」三部作を現在執筆中。
父をモデルとした小説「網走番外地」執筆開始。
東京都在住。
血液型O型/星座/山羊座
七草粥の日に産まれる。
2013年より大衆文藝雑誌ムジカにて創作活動中。
詩集・天国の地図 電子書籍化 
ダウンロード販売中!

ムジカ04号絶賛発売中!
お求めは… 池袋リブロ、青山リブロ、吉祥寺リブロ、新宿紀伊國屋、池袋ジュンク堂、渋谷丸善・ジュンク堂、吉祥寺ジュンク堂、神田三省堂、神田書泉グランデ、横浜有隣堂東口店、浦和パルコ五階紀伊國屋、他各書店、大衆文藝ムジカ編集部
アクセスランキング
[ジャンルランキング]
心と身体
7位
アクセスランキングを見る>>

[サブジャンルランキング]
病気・症状
2位
アクセスランキングを見る>>
FC2カウンター
応援よろしくお願いします。
ブログ村は相変わらずポイントが全く反映されない為、中止致します。
最新記事
最新コメント
ブロとも一覧
カテゴリ
リンク
このブログをリンクに追加する
最新トラックバック
おきてがみ
カレンダー
01 | 2017/02 | 03
- - - 1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 - - - -
メールフォーム

名前:
メール:
件名:
本文:

RSSリンクの表示
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

検索フォーム
月別アーカイブ
QRコード
QR
Powered By FC2ブログ

今すぐブログを作ろう!

Powered By FC2ブログ