ビーチサイドの人魚姫

うつ病回復のきっかけとなった詩集出版、うつ病、不登校、いじめ、引きこもり、虐待などを経験した著者が 迷える人達に心のメッセージを贈る、言葉のかけらを拾い集めてください。

忘年会のある風景。

忘年会

 今年も師走に入りいよいよ1年の締めくくりである。巷では忘年会や新年を迎える準備などで多忙を極めている人も多いだろう。来年の話をしても、もう鬼は笑わないし、2016年を振り返り、宴会で美味しいとご馳走を前にして、寒さに引つった顔も綻ぶ事と思う。
 私は「」と言う言葉に敏感である。嫌いではないが、病気のため殆ど飲めないに等しい。それでも20歳の頃などは正月になれば友人宅で一升瓶の日本酒ウイスキーのボトルを二人で空にしてしまった事もある。
 一晩で飲む量としてはかなり多い方だと思う。次の日は朝から頭がガンガンして二日酔い、そのため一日中横になっていた。急性アルコール中毒で亡くなる人もあるし、自分の身体にあった飲み方をしないと取り返しのつかない事になる。
 私の父はアルコール依存症乱だったため、私の子ども時代はこの父ととの闘いの日々と言っても過言ではない。私は一人布団に入り何時帰るか分からない父の事を気にしながら眠っていた。
 柱時計は既に午前0時を過ぎている。当然こんな時間まで起きている子どもも大人もいない。深夜の道が街灯の明かりでぼんやりと闇の中に浮かんでいる。車も人の気配もなく何処かで犬が吼えていた。
 小さな豆電球だけをつけたまま、薄い布団の中で明日の夢を見ている私の耳に聞こえて来たのは、無造作に玄関の扉を開ける音。静まり返った冬の夜空を裂くように響き渡った。そして不規則な足音と微かな呻き声。
 いつもの聞きなれた音と声ではあったが、私の身体は震えていた。これから起きる父とのやりとりを既に感じていたからだ。座敷に上がり襖を力いっぱい開けると、父は布団をめくりあげ「とし坊」と声を掛けて来た。それは地響きのように私の小さな身体を恐怖に揺らした。枕元に座り込み愚痴を話始める父。かなり酔っているので何を言っているのか聞き取れない。
 酩酊状態の父には明日の学校の事など頭の中には何もなく、自分の目の前にいる子どもが息子である事さえ忘れて、鬼になった父は吼えそして暴力が始まるのである。私は広い屋敷の中を小人のように逃げ回り、裸足のまま裏口から凍てついた庭の方へ逃げ出した。光輝く月と数々の星屑が庭の隅々まで反射している。逃げ場所はいつも決まっていてそこだけが安全な場所だった。
 数時間じっと動かず寒さに耐え、そっと家に戻って見ると父はその晩飲み食いしたと思われる物を胃袋から全て吐き出していた。元々に弱い父だったから身体が受け付けてくれなかったのだろう。畳に染み込んだ嘔吐物を始末するのは私の役目。
 父の身体に布団を掛け、自分も明日に備えて再び眠りに落ちた。私に取って酒は「きちがい水」そのものだった。いまでは差別用語になっているので耳にする事もないが、酔っ払いの姿を見るたびに父を思い出して懐かしい時代を振り返るのである。

2016いたばし花火大会in荒川土手。

花火2016

 8月6日、愛猫タラの癒し効果が背中を押してくれたのか、足取りも軽く花火会場の荒川土手へと出掛けた。家を出たのは16時だが、西台駅から会場まで徒歩で30分程度。夕暮れ時とはいえ、真夏の陽射しが容赦なく照り付けていた。気温は35℃を越えていたと思う。
 僅か10分も歩いただけで首筋が汗で滲んでくる。冷えた緑茶と氷を入れたマグボトルに早くも手を付けた。ほんの少しだけカップに注ぎ、グイッと一息に喉の奥へと流し込む。1日の水分量は厳しく制限されているから、喉の渇きに任せて飲む訳にはいかない。制限されているからこそ単なる緑茶が格別に美味しく感じるのだろう。
 17時少し前に会場に着き、昨年と同様の場所を見つけ、そこで時が来るのを待った。沈みかけた真っ赤な夕陽が背中に痛いほど突き刺さる。花火見学に来る人の殆どは家族、友人同士、そして恋人同士のようなカップルばかりで、私のように一人で花火を観る人はまずいないだろうと思った。
 それでも寂しいとか羨望の眼差しを投げるような気持ちは全くなかった。色とりどりの浴衣を着た若いお嬢さんたちの姿は眼の保養になったし、手を繋いで歩くカップルたちの姿はとても微笑ましく思えた。
 そんな浴衣姿を見て、ある夏の日の情景が浮かび上がって来た。勇樹の母親「ゆみ子」と出会って迎えた最初の夏だった。私は21、彼女は18歳になったばかりであった。安倍川花火大会を見に行く約束をしていたその日、待ち合わせ場所はいつもの「すみやレコード店」。彼女が来るのを待ちながらレコードを物色していた。
 「シュンちゃん、お待たせ」彼女の声に振り向くと、紺色に花火模様を散りばめた浴衣姿が飛び込んで来た。彼女は長い髪を後ろで結びポニーテールにしていた。「浴衣、似合ってるねー、なんかすごく艶っぽい!」、「うん、ありがとう、初めて着たんだよ」そうつぶやきながらはにかんだ。その表情には「シュンに見せたく着てきた」と言わんばかりだったが、そんな気持ちをぐっと堪えているようにも見えた。
 駿府城のお堀を眺めつつ、人混みの波に二人身を任せた。私の右手をぎゅっと強く握りしめるゆみ子、死んでもこの手は離さないといった、熱い愛情が私の心臓にまで伝わって来るようだった。
 時を告げるかのように花火が夜空に向かって打ち上がる。「オオーっ」という歓声とともに見事な花火が舞い散る花びらのように夜空を彩った。「シュン、わたしもあの花火のように咲いてみるね」「うん?う、うんうん…」。「でも、散り際も花火のように潔くね…」。ゆみ子の呟いた言葉に返す言葉も浮かばなかった。愛などという成熟した感情など持ちあわせていなかった。「恋は下心、でもその恋を二人で育てて愛にする」この境地に辿り着くまでどれほど遠回りしただろうか…。
 気が付くと、打ち上げ開始のアナウンスが風に流されそこら中に木霊していた。今年この花火会場に来れたことに感謝、そしてまた来年も同じ場所に訪れようとささやかな願いを込めて。

30年振りの万年筆はネーム入り。

万年筆

 静岡市内でパソコン教室『ゆうらくの森』を経営・講師をしている息子の勇樹から、誕生日祝いのスペシャルプレゼントが届いた。それはネーム入りの黒い高級万年筆!金色でK.Toshikiと刻印されているのが確認頂けるだろうか。
 万年筆で文字を書いていたのは30年以上も昔の事で、今ではもっぱらボールペンが主役となっている。パソコンが普及すると更に文字を書く機会が減り、筆記用具の代わりにキーボードを叩くのが日課となってしまった。
 年末近くになるとほぼ99%の確率で心不全を起こし救急搬送になるため、ここ4年は年賀状を書く余裕すらないという情けない状態。
 息子の「この万年筆で多くの作品を書いて欲しい」と言う熱い想いが篭められたネーム入り万年筆を手に取れば、執筆意欲も盛んに沸いて来るというもの。なんと書き心地の良い万年筆だろうと、感動で手までが震えて来る。
 30年ぶりの万年筆は忘れ掛けていた作品への拘りをも思い出させてくれた気がする。息子からの優しく熱い想いに応え、小説・エッセイ・詩などを意欲的に書き綴って行こうと、今年の新たなスタートを切る事が出来た。
 そしてまた1~2月に掛けて100%の入院を余儀なくされて来た訳であるが、今年はそれを回避出来ている事は実に喜ばしい限りだ。それには勿論、言葉では言い表せぬほどの努力が実っているからであり、一滴の水さえも我慢して忍の一字で入院回避を実現せねばと言う固い意思の下に自分の環境を置き、週一で訪れる看護師のアドバイスにも助けられながら、3分の2壊れてしまった心臓に「よく頑張っている」と感謝の念を忘れず、今年を無事に乗り切って行こうと思う次第である。

第56回いたばし花火大会2015in荒川。

板橋花火

 連日35℃を超える猛暑日が続いている日本列島、岐阜県多治見市では39.9℃を記録するなど今年の夏の異常な暑さを物語っており、熱中症で救急搬送される人や死亡する患者が軒並み増えている。
 この暑さ、何処かで暑気払いでもしないと身体が持たない…。そんな事を思いつつ、知ったのが自分の住む地元で8月1日に開催される花火大会の情報だった。板橋区に越して来て6年目になるが、2010年8月7日に江戸川区で行われた花火大会に行って以来5年ぶりとなる。
 その時は友人のミュージシャン・石井ひろあきさんと一緒だったが、今回はその日の夕方近くになって「花火でも見るか!」と思い付いたため、誘う相手もおらず一人で出掛けた。重い心臓病を抱えている事もあり「この暑さの中、身体もつのか…」と一抹の不安を拭えなかったが、気持ちはいつよりも増して前向きだった。
 打ち上げ会場の荒川河川敷まで西台駅から徒歩30分。自転車を駅近くに停め、会場に進む人の流れに紛れ込んだ。歩き始めて数分、意外にも足取りは軽く息切れもしない。「よし大丈夫、心不全なしだ」と思いのほか体調の良さに嬉しくなった。
 足早に人波を追い抜き進むにつれて身体中から汗が吹き出て来る。道の途中にある露天でビールやジュースに舌打ちする人々…。「キンキンに冷えたビール飲みたい…」然し厳しい水分制限があり夏場は1.5リットルまでと主治医から言われている。飲みたい時に飲めない身体を恨んだ。
 陽が沈み西の空から夜が訪れる19時を少し回った頃、花火大会は始まった。約50万人の大観衆が見上げる空に一筋の光が勢いよく昇って行く。地響きにも似た炸裂音の後に見事な芸術の花が咲く。
 次々に打ち上がる花火目掛けてカメラのシャッターを切った。私は外出すると必ず、その時に出会った風景や人々を撮影し記録しておく。それは写真日記のようなものであり、人生は言うなれば記録の連続だろうと思う。
 6千発の見事な花火に彩れた真夏の夜空に向かって「ありがとう、来て良かった」と感謝の気持ちを呟いた。

夜空に輝く光の花びら
色とりどりに咲き誇る
ぱっと散って
すーっと消えていく
その潔さは美しい
見とれる者にお土産の
命の音を置いてって

父の日は遠い空からやって来る。

遠い空

 父の日は母の日に比べるとその存在感が若干薄いような気がしますが、父の働く姿を子どもはあまり見かける機会が少ないため、父親が外でどんな仕事をしているのか、それは日常の親子の会話の中でしか知ることは出来ないかも知れません。プレゼントももちろん大切ですが、それ以上に会話は重要です。

 私と父に関しては過去に何度か書き綴って来ましたので想像は付くと思いますが、これから話す内容は私自身も割と最近になって知りました。私と父が一緒に生活した時間は非常に短かいものでした。その中心は小学生時代に凝縮されています。アルコール依存症で酒が切れると手が振るえ、字を書くとミミズ状態でした。最初に届いた葉書が府中刑務所からでしたが、その葉書には酒を止め、一生懸命働き、美味しい物を沢山食べさせてやると書いてありました。もちろん私はそれが本当だったらどんなに幸福だったろうと思っていましたが、それが叶う筈もありませんでした。
 父は酔うと人格が変わってしまい、鬼のような形相になり襲いかかってきます。それも私だけに対してでした。よそ様に手を出すような事(ヤクザ同士の喧嘩以外)はありませんでした。私の喧嘩相手は一番身近な父でしたが、狂った父をとり抑える事など子どもには到底無理。殴られ蹴られしますが、私なりに抵抗はしました。

 父は酔っている時の自分を何も覚えていません。顔に痣を作って学校へ行くと、クラスメートや担任が尋ねてきます。「神戸君その傷どうしたの?」私は正直に答えず「転んだ」と答えます。常にその繰り返しでしたが、いずれ父の行動は学校中に知れ渡る事となりました。そんな私を不憫に思った担任が養子に欲しいと相談があった時はかなり驚きましたが、私はきっぱりと断りました。何故なら私には父親がいるからです。私の心臓病が悪化したのも責任は父にありました。もっと早く医者に診せていればそれほど酷くはならなかったでしょう。酒を飲んでいない時の父は非常に優しく、またお人よしでした。人からの頼まれ事は断ったことがありません。その為、不本意な結果を招き手錠を掛けられたりと、父自身もまた波乱の人生を送り41年前、42歳の若さでこの世を去りました。
 人は死ぬと生前一番慕っていた人の所に魂となって現れると言われています。私は一回目の手術を19歳で受けました。父が亡くなって一年が経とうとしていた時です。かなり以前に短編小説「冬の蛍」を記事にしましたが、あの作品は半分ノンフィクションです。重度の心臓病を抱えた少年と父親の物語ですが、少年に付き添っていた父は既にこの世の者ではなかった…。少年が一番欲しがっていた「蛍」をプレゼントしてあの世に帰っていく父。そして奇蹟が少年の身に起こる。手術の支度を一人で整え、ペーパーバックに必要な物を詰め込み、静岡市立病院の門をくぐりました。春の穏やかな日差しに包まれた病室が、静かに私を迎え入れてくれます。6人部屋の一番窓際のベッドが私の仮の宿。暫くここで過ごす事への恐怖感はまったくありませんでした。心臓の手術を受ける少年にしては妙に落ち着いて見えた事でしょう。
 そして検査に追われる日々が続きました。そして正にこの時、故郷の藤枝である事件が起こっていたのです。亡き父が私に親らしい事を何一つしなかった事は誰もが知るところでしたが、そんな父の愛情が実は非常に力強いものだったと知ったのです。
 藤枝に住む親戚の伯母にその夜異変が起こったのです。なんと父の霊が現れ、伯母に「俊樹が心臓の手術を受けるため入院しているから早く行ってやってくれ」と伯母に頼んだのです。それは毎晩続き、そして日ごとに布団の上に覆い被さって来、伯母は金縛りに合い、身動きが取れない状態になりました。あまりにもしつこいので「そんなに何度も出てくるなら行ってやらないよ」と父に向かって怒鳴ったそうです。するとその次の晩から父は現れなくなったそうです。それまで私は父が自分を本当に愛していたのか心の奥では不信が募っていましたが、この話しで私は鳥肌が立ち、父の愛情が死してもなお別な形で現れたのだと知った時、大きな愛に包まれている自分を知ったのです。窮地に立たされている時、父はこの広い空のどこかで見守ってくれている事でしょう。脳梗塞から奇跡の復活を果たしたのも父のお陰だったかも知れません。
 父の日に何もプレゼントが出来なかった私ですが、私を活かしてくれた父は、やはりどんな言われ方をしても私にとっては偉大な存在です。ありがとう、親父。天国の酒は美味しいですか。酔っ払って天使を追い掛け回す父の姿が見えてくるようです。


グッバイ、ママ(母の日に想う事)。

まさえ叔母と

 母の日を迎える度に思い出す、非常に珍しく貴重な写真である。赤ん坊の頃に撮られた写真は、この一枚ともう一枚は叔母に抱かれている写真でまだ歩けない頃のもの。不思議な事に父や母と一緒に写っている写真は一枚もない。
 父と母が結婚したのは昭和29年、最初に住んだのは静岡市八番町。祖母の姉や妹が住んでいた2階に部屋を借り、そこで新婚生活が始まった。祖母の姉は日本舞踊の師匠をやっており、私の幼い記憶の中では、派手な着物と厚化粧で覆われた顔が今でもはっきり残っている。
 妹は商売をやっていた関係で従業員が大勢いた。暫く八番町で暮らした後、藤枝の本家に移ったが、父は結婚する前も後も仕事に就くことはなく、町の不良グループと毎日飲み歩いていた。家計を支えるのは母の仕事。昼は紡績工場で働き、夜はバーのホステスをしていた。
 かなりの美人で評判も高く人気者であった。仕事に忙しい母は育児を実家に頼んでいたようだ。朝は早く夜は帰りが遅い。そんな生活の中で息子を抱く暇もなかったのだろうか?父も家に帰って来るのは金が尽きた時だけ。父と母は顔を合わせる度に喧嘩を繰り返していた。そして3年が経ち、母はいつものように階段を降りて行った。
 私の記憶に残る母の姿がその時の背中である。3歳だった私は歌が好きで当時流行していた石原裕次郎の『俺は待ってるぜ』を毎日母の背中に向かって歌い、仕事に送りだしていた。その日以来、母は戻って来なかった。そしてその数年後、薬を飲んで自殺した。
 母親の愛情を全く知らない私は父親が育児放棄に走ってしまったため、親戚や隣近所、父の友人たちの手によって育てられた。母のいない不憫な子どもという目でみられていたせいか、周りの大人たちは私を甘やかせて育ててしまったため、随分わがままな子どもになってしまったようである。
 大人になった今でもそれを引きずっているため、周りの人たちに迷惑ばかりかけている。どうしようもない男なのである。三輪車と一緒に写っているこの叔母が私を一番可愛がってくれていた。しかし今は行方不明、目を背けたくなるような人生を送っている。

踊るサンタクロース。

踊るサンタ


クリスマスは理屈抜きで楽しむもの
不景気なんて関係なく 苦しい時だからこそ
笑顔を絶やさず せめて心に平和のツリーを灯せ
今宵は 誰もが サンタクロース
さあ みんな 踊るサンタに合わせて
ステップ踏もう
聖なる夜に 感謝を込めて
メリークリスマス



ひとめぼれ30キロの思い遣り。

ひとめぼれ

 静岡市在住の息子、勇樹から届いた年賀状に米を送ると書いてあったので、おそらく誕生日プレゼントの事だろうと思っていた。米がプレゼントと言うのも何だか色気のない話しであるが、人間、食わなければ生きて行けないと言う意味では最上の贈り物かも知れない。
 7日の誕生日に届くものだとばかり思っていると、5日の夜に宅配業者から電話が掛かって来た。「もしもし、かんべさんですか?これからお荷物お届けに伺いたいのですがよろしいでしょうか?」。数分後、ドアのチャイムが鳴った。
 ドアを開けるとヤマト運輸の若いお兄さんが「ハァハァ」と息を切らしながら大きな袋のような物を抱えて立っていた。
 「はい、お届け物です、ここに置いちゃっていいですか?」
 「あ、はい、どうもご苦労様…」
 年賀状には何キロ送るとまでは書いてなかったので、せいぜい5キロか10キロだと思っていた。それ以上の米は貰った事がなく、昨年の夏頃だったか養護学校時代の仲良しだった女性から5キロ届いた事があった。
 大きな袋に一体どれだけの米が入っているのか見当も付かず、兎に角重たいので玄関に置いたまま動かす事もままならなかった。早速、息子にメールを入れるとすぐさま電話が掛かって来た。
 「おーい、米ありがとう、一体これ何キロなんだ?」
 「父さん、それ30キロだよ!」
 「えーっ、30キロ!!、宅配の兄さんがゼェゼェ息きらしてたぞー」
 米の話しで盛り上がり、二人で大笑いした。息子の大きな笑い声を聞くのも久しぶりである。昨年は脳梗塞や心不全で心配ばかり掛けてしまい、息子の顔から笑顔がすっかり消えてしまっていた。
 「5キロ10キロは当たり前だから、30キロにしてみた」
 青森県十和田市から送られて来た「ひとめぼれ」30キロ…、予想を見事に打ち砕くその30キロ、これが本当の「重い遣り」ではないだろうか(*゚▽゚*)。

※息子の勇樹は最初の結婚で授かった子であるが、彼が2歳になる少し前に私は静岡の地を離れ上京。その後、長い期間に渡り息子と会う機会もなく、自分も静岡での事は全て忘れ東京で新たな人生を歩んでいた。所が、2008年7月1日、一通のメールが私の元に届いた。
 その内容を見て思わず全身に鳥肌が立った…。「神戸俊樹様こんにちは。私は、鈴木勇樹と言う者です。突然のメールで失礼致します。もし、人違いでしたら済みません。私は現在、父親を探しています。名前は『神戸俊樹』です。今日、戸籍謄本を取り、私自身初めて父親の名前を知りました。【父】の欄には『神戸俊樹』と記載されていました…。
 息子は私の名前をネットで検索し、『天国の地図』のHPを見つけ、そこに記されている私のプロフィールから、自分の記憶に留めている父に対する3つのキーワード「印刷会社」「昭和53年結婚」「昭和55年離婚」を手掛かりにして、矢も盾も止まらずメールを送付して来たのである。
 そして同年8月30日、父と子は27年振りの再開を果たしたのであった。もし、私が「詩集・天国の地図」を出版していなかったら、おそらくいまだに父と子の再開は果たされぬままであるだろう。一冊の詩集が子を呼び寄せ、そして父の声が息子の元に届いたのである。
 自分の父親が詩人である事を知った息子はそれに大きく感化され、自らも詩を書くようになった。蛙の子は蛙…やはり同じ血が流れているように思う。大衆文藝ムジカ創刊準備号には親子で作品と名前が仲良く掲載されている。


ウエディングドレスを押し花に。

押し花

 女性であれば一度は着てみたいであろうウエディングドレス。世の中には結婚式もまともに挙げられなかったカップル或いは結婚そのものが許されない男女など大勢いるのだろう。
 戦争の為に式も挙げられず出兵し、そのまま帰らぬ人となってしまったり等など。結婚をテーマにして想いを巡らせてみると様々な人間ドラマがある。
 わたしは以前にも話した通り、余命一年の宣告を受けたその後に結婚したが、当時ドクターストップがかかっており、歩くのがやっとという状態で東京駅のルビーホールで人前結婚式を挙げた。
 そしてその2日後に三井記念病院に入院、1ヶ月後に僧帽弁置換手術を受けたが、約9時間にも及ぶ大手術だった。術中に心筋梗塞を起こすなど危険な状態の時もあったが、何とか無事に乗り越える事が出来た。
 式場で家内の真っ白なウエディングドレス姿を見た時、「なんて美しいのだろう、俺はこんなお姫様と結婚出来るんだ。」 と死を背中に背負いながらも視線は未来に向かって輝いていた。
 ウエディングドレスは式が終われば用済みとなるが、出来れば心の中にウエディングドレスをいつまでも着せておきたい、男なら着せてあげて欲しいと願う。押し花のようにいつまでも残しておきたいと思うが、これは男の勝手な思い込みなのだろうか…?
(離婚した今でも当時の事は鮮明に覚えているし、想い出はいつまでも色褪せる事はない…。)

地球の片隅で温暖化防止を叫んで見る。

温暖化

 地球からとってみれば人類も一匹の蟻も同じ生物に変わりなく、共通点と言えば種族を絶やす事無く繁栄させる事だろう。
 しかしそれは自然と一体になっていなければならず、おもちゃ箱をひっくり返すように自然破壊を繰り返す人間に今更異常気象だ温暖化防止だのと言ったところでもう手遅れかも知れない。
 地球はそれほどお人よしではなく、いつまでも人間のわがままに付き合ってはくれない。植物が酸素を供給し、その酸素によって我々は生きることが出来、その代わりに二酸化炭素を排出する。それを植物が吸収してくれるという、実に調和のとれた世界(理想)が出来上がっている。
 しかしながら人間の野望は大きすぎて、現実に起こりうるだろう未来の暗雲を振り払う事が出来ない。富を得るため人類は争いを起こしつつ文明を築きあげてきたが、その影で人間の手によって多くの自然破壊が頻発する。
 身近に温暖化の影響が起こり始めてから気付いても、もう元の地球には戻れない。氷山は悲鳴を上げ崩れ落ち、海面が徐々に高くなる。そして南国の小さな島は水面下へと消えていく。
 産卵場所が無くなった砂浜には海亀の涙が打ち寄せるだろう。地球も一個の命であり、必ず終焉がある。しかし人間の手によって地球の寿命を短くしてはならない。

初めての旅は、府中刑務所だった…(追記有り)。

東京タワー

 わたしが初めて東京に行ったのは小学4年生の時だった。その頃はまだ新幹線も開通していなかったので伯父に連れられて東海道線の長い汽車の旅を経験した。
 行き先は東京の郊外にある府中刑務所。父が服役している場所であった。日時や曜日までは思い出せないが前日に藤枝を出発し、東京に着いてから地下鉄を幾つも乗り継いだ記憶がある。
 こんな暗い所を電車が走っているなんてと驚いていた。東京には三郎という祖父の兄弟が住んでいるらしく伯父はその人の家を探し回って いたようだったが結局見つからず、もう夜も10時を過ぎていたのでそこら辺で見つけたホテルに泊まった(今思うとラブホテルだったのかも知れない)。
 ふんわりしたベッドの感触やバスルームに綺麗な花びらが浮いていたのを思い出す。家で寝る石のように固い薄っぺらな布団とは大違いだった。
 都心から都下にある府中刑務所まではおそらく京王線で行ったのではないだろうか。その頃に京王線が存在していればの話ではあるが。府中と言えば競馬で有名なところである。
 府中に刑務所がある事を知っている人はどれだけいるだろう。父の出所を迎えに行くのはこれが2回目なのである。実は4歳の頃に祖母と一緒に静岡刑務所へ迎えに行った事がある。4歳という幼い記憶なのでおぼろげながらに記憶しているだけであるが、2度目の出迎えは鮮明に脳裡に焼き付いている。
 子どもの目からみればそれは城門の聳え立つ高い塀に見えた。刑務所の入り口までは広い公園になっていて、わたしはそこで一人待たされた。子どもは刑務所の中には入れないのである。
 一体何時間待っただろう。天気がよかったので公園に生い茂る樹木の下で飛び回る虫たちの姿を見つめながら、時間が過ぎるのを待った。
 公園内を掃除している清掃員のおじさんが声を掛けて来たが内容は忘れてしまった。こんな所に小さな子どもがいる事自体が不思議であり、よほどの事情があったのだろうと思ったのかもしれない。
 随分長い時間を待たされてようやく大きな刑務所の門が開いた。わたしはそれをかなり離れた距離から見詰めていた。
 最初に伯父の姿が現われ、その後に白い開襟シャツを着た父の姿が見えた。父は少し笑っていた。本当ならここでドラマのように父に向かって走り出し抱きつくシーンを思い起こすだろうが、そんなテレビドラマのように劇的な風景とは裏腹に父との会話は全くなかった。
 出所する時、刑務所から僅かだが現金が支払われる。服役中は誰でも労働するわけだからそれに対する報酬が出るのであるが、それは本当にわずかな金額で、刑務所から故郷に帰る交通費と飲食代程度のものだった。
 幼いわたしとしては折角東京まで来たのだからせめて東京タワーに登ってみたかったが、そんな時間は全く残ってはいなかった。
 帰りは午後から雨になり静岡行きの列車も満員で座る事が出来ず乗車口の所に立っていた。通り過ぎる雨に煙る薄暗い空に東京タワーが天を突刺しながら「ボク、また追いで」と言っているように思えた。
 同じ乗車口に居た綺麗なお姉さんがわたしにパンをくれた。お腹の空いていたわたしにとっては有り難い思いがけないご馳走だった。パンに喰らい付くわたしを見て、父が優しく「お礼を言えよ」と言った。

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酒と涙のクリスマスケーキ。

ケーキ

 貧困は、時に子どもの心を傷つける。わたしはそれを子ども時代にうんざりするほど味わって来た。昭和30年代にクリスマスプレゼントの慣習が日本に存在したか知らないし、記憶として残ってもいないが、唯一それらしい出来事を今になって思い出す。
 泥酔しきった父が真っ赤な顔をして「とし坊、土産」と差し出した小さな白い箱の中身は、酒臭いイチゴのショートケーキだった。
 わたしはそれが嬉しくてたまらず、涙を浮かべながらその甘さを味わった。後にも先にも父からの贈り物はそれだけだったが、酒と自分が流した涙のしょっぱさが入り混じったケーキの味を今でも忘れない。
 父は非常に大人しく気の小さい人間だったので、何か行動に移す時は一杯引っ掛けて酒の力を借りないと何も出来なかった。
 息子に贈り物をすることすら気恥ずかしい思いを抱いていたのだろう。酔えば必ずといってよいほど乱暴になり、暴力を奮ってわたしを傷つけたが、わたしは一度も父を嫌ったことがない。
 但し、一緒に歩きたいとは思わなかった。この人が自分の父親だと思われたくなかったのであるが、わたしが父を愛していた事は、詩集「天国の地図」の中に書いてある作品「父が死んだその日」「わたしが帰った時」「祭りの夜」等を読んで頂ければ、頷けると思う。
 今夜はクリスマスイヴ、世界中でその喜びに浸りプレゼントの交換、パーティなどを催し、ご馳走に舌鼓を打つことだろう。
 しかし、その隣では明日の糧を求めて餓え続け、サンタクロースの来ない子どもたちが大勢いる事を忘れないで欲しい。
 今、あなたがもし幸せだと思ったら、それは「当たり前」ではないことなのだと認識して欲しい。

ハロウィンの夜が更けて行く。

ハロウィン

 ハロウィンを分かり易く説明すれば、日本でいうお盆。宗教が変わっても、霊に対する慈しみは変わらない。日本の場合は玄関に砂をまいておくと、帰って来たご先祖さまたちの足跡が残ると言う。まあこれはわたしの住んでいた藤枝の風習だったが。
 仏壇のある家は竹を二本用意して飾りを付け、茄子やきゅうりに割り箸を刺して、動物に例える。そしておはぎやら果物、飲み物を供え精霊たちが道に迷わないように迎え火を焚く。
 日本は仏教だから見た目はハロウィンと違い地味である。わたしはこのハロウィンが来る度に1992年のアメリカで起きた「日本人留学生射殺事件」を思い出す。あの時の言葉を今でも忘れる事が出来ない。
 そう「フリーズ」である。今ではパソコン用語にもなり小学生まで知っている英語だが、それを「プリーズ」と聞き間違え、銃で撃たれて死亡した日本人留学生の服部剛丈さんの事。
 この事件に寄り、アメリカの「銃社会」の実情が浮き彫りになった。住めば都というが、その土地の風習に慣れるまではかなりの時間を要する。
 たった一言が取り返しのつかぬ事態を招く危険が潜んでいる為、不用意な言葉は慎まなくてはならないだろう。
 他所の土地に行くのであれば、先ずはその土地の習慣をよく学ぶべきである。水が変われば人の考え方も変わる。自分の常識が通用しないことを前もって知っていれば、不慮の事故は防げるのである。


その頃、23歳の青年はボクサーを目指していた。

ボクサー

 そんな訳ありません。心臓病のわたしがボクサーになれる訳がないですよね。このボクシンググローブ、実はわたしの父の形見の一つでした。
 父がボクサーだった訳ではなく、父(極道)の舎弟分がバンタム級のプロボクサーだったんです。その彼が練習用に父に預けた物です。
 父は喧嘩がかなり強かったので、殴り方などよく教えてくれました(いじめの記事を参照)。街中で昼間から喧嘩に借り出されることしばしば。揉め事を収めるのは大抵が父の役でした。
 この画像は1979年の夏に撮影したもの。静岡市西島の野村アパート201に住んでいた時で、5分も歩けば大浜海岸があり、テトラポットに駿河湾の荒波が打ち寄せていました。
 一日中潮の香りが漂い、夜はさざ波の音が聞こえる、とても環境の良い場所でした。一つ困ったのは潮の影響でテレビのアンテナが直ぐに錆び付いてしまうこと。
 但し、此処には3ヶ月ほどしか住んでいなかった。ある事情により女性と子どもに荷物ごと明け渡して、わたしは単身横浜へ向かったのです。
 襖に張ってあるポスター誰か分かりますか?ヒントはコッキーポップ。ポプコンです。さあ当ててみましょう、若い人には分からないかな(^.^)。

あの世からのメセージ。

心霊

 2004年10月、父の30回目の墓参りに行った時に写した写真。この日は朝から土砂降りの雨で、東名高速も速度制限をしていた為、郷里の藤枝市に着くまでかなり時間がかかった。
 この雨ではまともに墓参りなど出来ないだろうと思っていた。藤枝に着いた時は既に時計の針は午後1時を回っていたが、雨は相変わらず激しく道の至る所に水溜まりを作っていた。
 コンビニで弁当を買い、車の中で家内と息子の3人で遅い昼食を済ませる。いい加減に止んで欲しいと心で呟きながら長楽寺へと向かった。
 すると雨が突然小降りになり始め、寺に到着した頃はすっかり止んでしまったのである。車から降りた時は一滴も落ちて来ない。
 空には秋雨前線がどんよりと立ち込めている。さあ今のうちに済ませてしまおうと、墓参りといつもの恒例の記念撮影。
 そして車に乗った途端に雨が激しく降り始めた。妙な気分ではあったが、その日はひねもす不思議な現象が続いていた。
 さて、おそらく既に気付かれた方がいると思うが、わたしの右肩に注目して欲しい。それは、ハッキリと鮮明に写し出された手。
 わたしの肩をしっかりと掴んでいるではないか。専門家の鑑定によれば、どうも若い女性らしい。それもかなり昔に亡くなられている先祖の霊だと言う。
 心当たりがあった。23歳で亡くなった叔母がおり、子どもの頃とてもよく可愛がってくれた綺麗な女性。鑑定士曰く、「これは非常に貴方を心配して守ってくれている守護霊なので大切にしなさい」との事だった。
 この写真(心霊写真)は非常に強いエネルギーを放っているので、見た人にも良い事が訪れるかも知れないと、その霊能者(鑑定士)は語っていた。

心に花束を持って。

花束

 2005年10月、綿菓子を溶かしたような白い秋の雨が降りそぼる頃だった。東京都済生会中央病院に、中央聖書教会の牧師「石原先生」が入院しておられたので、早速お見舞いに行った。小雨の中、傘も指さずオーバーヒート気味のわたしの身体には丁度よい冷たさだった。
 わたしの場合、多少の雨であれば傘を指さない。雨に濡れるのが好きな少し変わった所がある。雨も天の恵みに変わりなく、わたしにとっては心地良かった。
 術後まだ間もない先生は意外と元気であった。先生には一度しかお会いしておらず、しかも非常に短い時間だったので、わたしの事は覚えていなと思っていた。
 病室に入りベッドを見ると空だった。「あれ?何処へ行ったのかな」と思いながら病室を出ると、若い看護師がやって来て「石原さんは今お風呂に入ってます」と教えてくれた。
 廊下で5分ほど待つと、ふくよかな顔に銀縁眼鏡の良く似合う先生が、わたしの方に片手を挙げて挨拶をしてくれた。
 少し肩で息をしている先生はやはり病人であったが順調に回復しており、随分と会話が弾んだ。時計を見るともう17時近く。
 病人の先生に長話しをしてしまい申し訳なく思ったが、病気を抱えているわたしがこうして花束を持って見舞いに行くのは初めての事だった。
 いま思えば最初にわたしを見舞ってくれたのは小学6年のクラス全員と千羽鶴だった。そして次々と訪れる見舞い客たち。
 今まで多くの方々に見舞って頂いたお礼も込めて、先生に花束を送った。わたしに花束は似合わないかもしれないが、病気になって初めて気付く日常がある。健康な人も、そうでない人もみな心に花束を持とうではないか。

美容師がハサミを置く時。

ハサミ

 わたしが散髪によく行っていた理髪店が店内改装だった為、数十年振りに美容院へ行った。20代の頃は美容院で髪をカットしてもらっていたが、この歳になって美容院へ行くのもと思ったが、良さそうな理髪店が思い浮かばず、立ち寄ったのが瑞江駅ビル内にある美容院だった。
 担当は「望月君」と言ってまだ30そこそこの若者だった。
 「5月に新聞社のインタビューを受けるから恰好よくカットしてよ」などと言う会話を交えながら話が弾んだ。
 美容院も理髪店も髪を切る事に違いはない。だが、髪をカットする時の、鋏の入れ方に違いがあるのをご存知だろうか?
 理髪店は髪を直線で切るが、美容院は斜めにカットする。そして美容院は髭を剃らない。 何故なら法律で禁じられているからだ。
 刃物を肌に触れて良いのは床屋だけ。その後数回に渡り望月君にカットしてもらい、つい先日彼が「鋏を置くことにしました」と言った。
 「うん?何のこと」「足を洗うんです」「何でまた急に?」「もうこの道を極めたので…」何を生意気なと思ったが、彼なりの決断。
 そこにわたしが口を挟む必要はない。カリスマ美容師などと言う言葉が一時ブームになった。髪を切り美しく整えることはもちろんであるが、美容師の仕事はそれで終わらない。人の心の中も美しくカットしてやって初めて一人前の美容師、理容師と言えるのではないだろうか。 

今もそこにある戦争(終戦記念日を迎えて)。

終戦

 1945年(昭和20年)1月9日、神戸信夫(父13歳)は、自宅近くにある蓮正寺の境内で日向ぼっこを楽しんでいた。
 戦時中の正月がどのようなものであったか定かではないが、食料の配給下では満足に腹を充たす事など皆無ではなかったかと思う。
 藤枝では有数の資産家だった神戸家にとって見れば、戦争の影響による衣食住に困窮する事は全く無かったが、家族二人が南方へと出兵し帰らぬ人となっている。この二人の戦死は後に神戸家衰退の大きな要因となった。
 日当たりの良い境内に胡坐をかき、高級もののタバコに火を点け一点の陰りもない正月の空を仰いでいた。この頃から不良少年だった信夫は町内のガキ大将で有名だった。
 朝の静寂を切り裂く空襲警報が町中に鳴り響き、青い空を恐怖で震えさせる。神戸家はお稲荷さんを祭っており、その裏側に家族全員が入れる防空壕があった。
 藤枝市(旧藤枝町)の片田舎にも米軍爆撃機B-29が飛来したのである。東から西に飛来した1機のB-29は5発の爆弾を投下し去って行ったが、その目的は単に機体を軽くするためだったという。
  この空爆で藤枝町役場の職員十数名が犠牲となった。一発の爆弾が落ちた場所は、藤枝市役所の直ぐ脇であり、そこは戦後埋め尽くされることもなく戦争の傷痕として残されたが、いつしか湧き水によって鯉が数十匹泳ぎ、夏にはここで水浴びを楽しんだり、釣りをする子どもたちの憩いの場へと変わっていった。
  子どもの頃、父からこのような戦争の話をよく聞かされたが、当時(昭和30年代)の子どもたちの間で流行っていたのは『戦争ごっこ』。ただし、太平洋戦争 ではなく『日露戦争』『日清戦争』が遊びのモチーフになっていた。負けた戦争より、勝った戦争で遊べと大人から言われていたのかも知れない。
  そしてやはり子ども時代によく口ずさんだ歌が『軍歌』だった。『ラバウル小唄』『麦と兵隊』などは強く印象に残っている。そしてもう一曲が『酋長の娘』、こちらは軍歌ではないと思われるが、当時のわたしはこの曲も軍歌だと認識していた。詞の内容がそのように思えたのである。
―わたしのラバさん 酋長の娘 色は黒いが 南洋じゃ美人―
 この歌は『酋長』の部分が好ましい表現ではないとされ放送禁止歌になっており、現在歌われることはない。
 今年67回目の終戦を迎えたが、この戦争に直接間接を問わず多くの人間が関わって来た。人によっては、いまだ戦争を終わらせることが出来ず、悩み苦しんでいる人たちも多い。わたしたち現代人の生活の中にも戦争の影を垣間見ることがある。
  子どもたちがプールや風呂場で戯れ遊ぶ時に使う『水鉄砲』や冬になれば厚手のコートを羽織って外出するが、これは軍服がモチーフとなって今に至っている。 人間同士が殺し合う戦争は絶対に避けるべきであるが、それ以外にも戦争と呼べるものは多くあり、いまだに『万歳』を叫ぶ日本人がわたしには理解不可能。
 戦争からわたしたちは一体何を学んで来たのか、本当の戦争の姿は何処にあるのか、もう一度歴史を振り返りつつ、後世に戦争の有り様を残し伝えて行かなくてはならない。

核兵器はもう要らない。

広島

 人類最大の過ちが広島を一瞬にして焼き払った原子爆弾が投下されてから、今年で67年という歳月が流れた。
 実際に原爆の犠牲者となった人たちは大量の放射能に晒されながら、現在でも生存しておられる方々も年々少なくなって来ているのが現状である。
 あの日雲一つない快晴の空に銀色のB29が悪魔を連れて飛来した。広島市の朝はいつもと変わらず平常通りの通勤風景や一日の始まりに、忙しい朝を迎えていた。
 夏休みを満喫している子どもたちは、プールや水遊びを計画していたに違いない。そしてその三日後、長崎にもう一発の原爆投下。
 降り注ぐ死の灰は人々の遺伝子まで破壊して行く。大量の放射能は容赦なく二重被爆の惨劇を生み出した。
 当時アメリカは核爆弾を三つ所持しており、一つはニューメキシコの砂漠地帯で実験済みだった。残った二つを何としても地上で実験したかったアメリカ。
 キノコ雲が高い青空に烈火の如く咲いた模様を眺め、トルーマン大統領は悪魔の雄たけびを上げたのである。
 「我々の科学と歴史的瞬間が勝利し大成功したのだ」暗黒の紫雲下でどんな地獄絵図が起こっているかなど、大統領の頭には思い付きもしなかったのだろう。
 それから数年後、各国で相次ぐ核実験が行われ続け、核兵器開発に膨大な予算をつぎ込む事となる。自国の武力を誇示するアメリカや、核保有国の言い訳は戦争の抑止力などと言う、曖昧な定義で唯一の被爆国である日本の叫び声はかき消されて行く。
 核を持ちたがる国は後を絶たず、イラン、北朝鮮など戦争を起こしかねない導火線を持った国にも及んでいる。
 戦争が生み出す悲劇、それはあらゆる兵器を使用する人間の愚かさと、戦争によってもたらされる利益と人の命を天秤にかけ武器商人と取引するテロ国家など、その温床は武器を作り続ける国同士の終わりなき悪夢の連鎖。
 もう核兵器も武器も要らない、必要のない国作り。武器を捨ててこそ真実の勇気が生まれ、地球上に真の平和が訪れるのではないだろうか。長崎が被爆地ラストである事を願うばかりである。
 東電が招いた福島原発事故によって、途方もない放射性物質が海、山、川などに飛び散り広島同様の苦しみが今、この日本を襲っている。
 痛みがなければよいのか、見えなければ平気でいられるのか、汚染された空気を吸いながらそれでも地上の緑は活力を失わない。然しそれは人類の眼が盲目だからその様に見えるだけなのである。犯した過ちは二度と取り戻す事は出来ない、哀れな人間たちのエゴイズムの為に…。

プロフィール

俊樹

Author:俊樹
本名/神戸俊樹
静岡県藤枝市出身。
19歳の時に受けた心臓手術を切っ掛けに詩を書き始める。
2005年3月詩集天国の地図を文芸社より出版、全国デビューを果たす。
うつ病回復をきっかけに詩の創作を再開800篇を超える作品が出来上がっている。
長編小説「届かなかった僕の歌」三部作を現在執筆中。
父をモデルとした小説「網走番外地」執筆開始。
東京都在住。
血液型O型/星座/山羊座
七草粥の日に産まれる。
2013年より大衆文藝雑誌ムジカにて創作活動中。
詩集・天国の地図 電子書籍化 
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