ビーチサイドの人魚姫

うつ病回復のきっかけとなった詩集出版、うつ病、不登校、いじめ、引きこもり、虐待などを経験した著者が 迷える人達に心のメッセージを贈る、言葉のかけらを拾い集めてください。

いじめっ子には怖いサンタがやって来る。

怖いサンタ


 クリスマスソングは非常に多く教会などでは「もろびとこぞりて」「きよしこの夜」などが代表的。場所を変えて街やTVで聞こえてくる曲はクリスマスイブ(山下達郎)、クリスマスキャロルの頃には(稲垣潤一)、恋人はサンタクロース松任谷由実)、ハッピークリスマス(Jレノン)等。
 人それぞれ思い出の曲があり、イブの晩に失恋してしまったりとほろ苦い経験を持っている人もいるだろう。
 私のお気に入りは佐野元春の「クリスマス・タイム・イン・ブルー聖なる夜に口笛吹いて」。特に思い出がある訳ではないが、クリスマスをメッセージソングとして扱っている所が気に入っている。
 サンタクロースに願い事をし、プレゼントを心待ちにしていた幼い記憶を皆が持っていた。無垢な心からやがて月日が経ちその正体を知り、そして今度は自分が親になりサンタを演じている。
 サンタクロースの真実を知るのは平均で7歳だと言われているが、私は今でもその存在を信じている。人類がこの地上に生まれ進化し栄光と繁栄を繰り返して来たが、その影には醜い権力の争いが常に付きまとって来た。
 それでもサンタクロースは年に一度訪れるのである。サンタは神の化身、諍いの絶えない人間に心を痛めた神は、サンタクロースに姿を変えて子どもや大人に一つのプレゼントを置いて行く。
 それは愛である。愛情の篭ったプレゼントほど嬉しいものはない。愛とは受け取るものではなく、与えるものだと教えてくれている。頂いた愛は人から人へと受け継がれていくもの。貴方は生まれながらにしてこの世に生を受けた時、既に母胎の中で愛を感じとっているのだ。

父の日は似顔絵とともに。

似顔絵

 6月19日、心不全の兆候で四苦八苦している時だった。通販で買い物した覚えもないのに宅配便が届いた。送り主を見ると静岡いる息子の勇樹からであった。この時季に何だろうと思い開けてみると、木の枠に収まった似顔絵らしきものが。「ああ、そうか!今日は父の日だったのか」。
 そこで初めて19日が父の日である事に気付いた訳である。似顔絵以外に静岡音楽館Aoiで開催された『オペレッタ・赤ずきんちゃん』のステージが収録されたDVD、そして銘茶・竹茗堂の煎茶。日本茶の好きな私にとって、故郷の香りと味が詰まったお茶を頂ける事は嬉しい限りであった。
 さて、この似顔絵が私に似ているかどうかは別として、おそらく彼自身が小学校低学年の自分に立ち返り、小学生に成りきって一生懸命に描いたものと思われる。その様子はこの絵の筆跡に十分表現されており、似顔絵を通して父に対する感謝の気持ちが優しくそして力強く伝わって来る。
 私は息子が2歳になったばかりの頃、静岡を離れ東京方面に向かった。その為、私と息子との間には20年以上の空白がある。実際に息子が父親の似顔絵を描く機会が過去にあったかどうか定かではないが、本来であれば幼い時期に本当の父親の顔を描きたかっただろう事は、この似顔絵を見てもヒシヒシとその切ない想いが伝わって来るのである。
 似顔絵に関して言えば私にも淡い過去の想い出が一つだけある。父親の似顔絵を描いた記憶はないのだが、顔も知らず後ろ姿だけが影の様に焼き付いた母の顔を描いた想い出…。小学2年の時、図画の授業だった。「さぁ、皆さん今日はお母さんの顔を描いてみましょうね」。担任は母の実家の隣に住んでいた飯塚先生。
 クレヨン画用紙が机の上に並び、44名の子どもたちが担任の合図で一斉にクレヨンを握りしめ、思い思いの母親像を真っ更な画用紙に描き始めた。そんな中、一人の少年だけが宙を見詰めたまま握った黒いクレヨンはぴくりとも動かない。
 その少年の姿を見て悟った担任が近づいて行く。そして声を掛けようとした時だった。突然、画用紙に向かって右手を動かし始めた少年。それはオモチャ箱をひっくり返した中から自分のお気に入りを見つけた時のような喜びに充ちていた。
 然し、母親の顔を知らない少年が描いた画用紙の中の母親は赤の他人で、近所のおばさんの顔を思い出して描いたのである。知らないのであれば描かなければ良いのではと思うが、その時の少年は『何か描かなければ怒られる』と思ったようだ。そのおばさんの似顔絵は、今でもくっきりと鮮やかに私の心の中でにっこり微笑んでいる。

電磁波アラカルト。

電磁波


 世の中がまだアナログ中心で動いていた時代、リモコン付きテレビが登場すると「便利な世の中になったものだ」と誰もが口を揃えて言った。音楽を歩きながら楽しんだり、どんな場所からでも電話やメールを送れるなど、人間を取り巻く生活環境は大きく変化し、そしてテレビはアナログ放送からデジタルへと飛躍的に姿を変えた。
 人間にとって都合よく進化し続ける現代社会であるが、その裏には眼に見えないリスクが多く潜んでいる。便利な家電製品に囲まれつつ、それでも更なる利便性を求めて止まない人間の欲求は果てしない。
 それ故、人類は進化し続ける生物でもあるが、全ては「何らかの犠牲」の上に成り立っているものである。原発事故はその犠牲の象徴とも言えるのではないだろうか。4年ほど前の話しであるが、WHO(世界保健機関)の国際がん研究機関(IARC)から、携帯電話の電磁波と発がん性の関連性について、限定的ながら「可能性がある」との分析結果が公表され、一時は世界が騒然となった事を記憶している。
 耳にあてた状態で通話を長時間続けた場合、脳腫瘍が発症する危険性が上昇する可能性があると言う。携帯電話の電磁波については携帯が普及し始めた 1990年代から既に指摘されており、WHOによる発表は「今更」と言った感も否めないが、世界のトップに位置する機関が公式に認めた内容である為、その意味ではこれを予防措置の警告として受け止めた方がよさそうである。
 多くの電化製品に囲まれた生活の中では、携帯電話に限らず電磁波を浴びる状態が恒久的に続いている。眼に見えない恐怖と言えば、巷を随分と騒がせた「放射性物質」だが、そのリスクから比べれば電磁波は微々たるものであるし、発がん性のリスクが最も高いと分類されている「煙草」「酒」「コーヒー」などは日常的に見える恐怖として捉えられることはまずないだろう。
 このように、わたしたちは「矛盾」と言うリスクを背負いながら生きているが、自然界には不思議な植物があるもので、電磁波を吸収して育つサボテンがあると言う。NASA(アメリカ航空宇宙局)の調査によりその性質が発見された「セレウス・サボテン」は、2005年に話題になったようだ。
 有害な電磁波を発生するパソコンやテレビから身を守るアイテムとして、インテリアにもなるこのサボテンを部屋の片隅に置いてみては如何だろうか。
※大衆文藝ムジカ03号に掲載されているエッセイです。


戦争と平和の狭間で(終戦の始まり)。

戦争


 終戦70年の節目を迎え、各地で戦争の無意味さと平和の尊さを訴える催しが行われている。年を重ねる毎に戦争を知らない世代が増え、平和の定義も細分化され始めている。日本は原爆を二つ落とされ最悪な結果を招き、その数日後に無条件降伏した。厚木基地に降り立ったマッカーサーはパイプを誇らしげに咥え、にんまりと微笑んだ。「此処はアメリカだ」と心で呟いただろう。そして厚木基地アメリカのシンボルとなった。
 基地返還を訴えたところで、虚しくオスプレイや戦闘機の爆音にかき消されるのみ。戦後の日本はアメリカのバックアップを元に急成長を遂げたが、日本列島の至る所に米軍が駐在し、果たして本当に戦争は終わったのだろうか?平和は訪れたのだろうか?と疑問に暮れる。
 戦争終結とすり替えに平和が手に入ったとは到底思えない。いまだに原爆の後遺症に苦しむ大勢の人々。蝉も鳴き止むほどの猛暑に耐えかね、ビールとクーラーに囲まれて終戦記念日の特集をTVで見る現代人たち。
 神風特攻隊の若者が天空に散って行く姿をどのような思いで見詰めるのだろうか。戦争は国によってその捉え方が異なる。聖戦と称し、自爆テロに走るイスラムの人々。戦争の仲介屋になった米軍。無差別に人が殺される戦争に正しいものはなく、戦いの後に残るものは虚しさと悲しみだけである。地球は丸いのに丸くなれない人間たち、その愚かさに気付いてももう手遅れかも知れないが。

主婦の溜息が聞こえる、コインランドリーブルース。

コインランドリー

 梅雨時、主婦を悩ます一つに洗濯物がある。湿気が多いので中々乾いてくれない。雨が降っていれば部屋の中に干すしかない。突然の訪問客が来たりすると慌てて洗濯物を隠したりする。バスルームに乾燥機が着いている家も多いと思うが、これ結構電気代がかかる。
 家計を預かる主婦にとって、節約の種は数多くあり悩むところでもある。ガス、電気、水道とこの三つは生活になくてはならない要素。家族が多いほど洗濯の量も増え水も多く使う。だから湯船の水を捨てないで洗濯水に使ったり主婦は様々な所で生活安定と維持のため頭を使い努力する。
 男は外で仕事をするので一日の大半は会社で過ごす。その間に家がどのような状態か、あまり関心を持たないかも知れない。最近では主夫も増えてきたし、家事の手伝いを積極的にやってくれる優しい男性も増えた。これはとても良い傾向である。働く主婦が増えたという事もかなり影響している。
 主婦のキャリアが存分に発揮されるのは主に食事であろうか。料理作りには企画と構成力が必要。先ずは財布と相談し献立を考え、食材の調達と忙しい。これを毎日繰り返すのである。家族に食べさせる食事の味には主婦の愛情とプライドが染み込んでいると思う。
 家の近くに24時間オープンのコインランドリーがあり、深夜になっても車に乗って洗濯物をどっさり運んで来る人が多い。ドライクリーニングも完備しているので主婦もよく利用しているようだ。
 上京したての頃は家賃2万円の木造アパートで風呂はなく、トイレは共同だった。徒歩3分ほどの所に銭湯があり、仕事が終わると(会社の近くに住んでいた)シャンプーと石鹸を持って真っ先に湯船に浸かった。早い時間帯は銭湯も空いていて気持ちが良い。
 銭湯と並んでコインランドリーがあり、乾燥機もあるので便利だった。回転する乾燥機を見詰めながら行き場所の失った自分が洗濯物と一緒に回転しているように見えた。不安を抱えながら詩を書いていた20代後半、その延長で今はブログを書いている。コインランドリーを見るたびに思い出す青春があった。

満天の夜を抱いて一羽のフクロウが啼く。

フクロウ

 それは私が小学校低学年の頃だった。実家の庭に樹齢400年をゆうに越す巨木があった。庭は広く様々な種類の草木が生い茂り、夏ともなればまるで何処かの山奥にでもいるような感覚を味わう事が出来た。
 多種多様な生き物が棲息し、昆虫採集や野鳥観察などは自分の家で遊びながら体験出来たが、一度だけとても怖い思いをした事があった。
 旧家なのでトイレは別棟になっており、屋敷から10mほど離れた所にあった。夜中にトイレに行きたくなり、障子戸を開けると外は満天の夜。無数の星が光輝き、空は生命で溢れ返っていた。そしてその中心に満月。月の光を浴びて浮かび上がる樹木たち。
 その満月を突き刺すように聳え立つ巨木。そしてその直ぐ横にトイレがあった。その巨木には昔から主が棲んでいた。一羽のフクロウである。姿を見た事はないが樹木のかなり高い辺りで「ホーホー」と啼くのである。幼かった私はその声に怯え、ついにトイレまで行く事が出来ず朝まで我慢するしかなかった。その巨木は近所の人たちから「が落ちると危ない」と苦情が寄せられ、切り刻まれてその一生を終えてしまった。それ以来あのフクロウの啼く夜は来なかった。
 自分の棲家を奪われてしまったあのフクロウは何処へ行っただろう…。怖い夜から脱する事は出来たけれど、大切な友達を無くしてしまったような物足りなさを抱いていたのは確かであった。

Legend of The Moon(伝説の月)。

月食

 宇宙の存在が現在ほど明らかにされていなかった遥か昔、古代人の眼に月はどのように映っていただろうか。月に纏わる話しは世界各地に散らばっており、そこの住人によって語り継がれている月の姿は様々だ。
 日本では「かぐや姫」の伝説が最も有名であり、そしてまた「うさぎの餅つき」はインドが発祥地となっている。古代から人類と密接な関係にある月、子どもが産まれる確立が最も高いのが満月の時であり、潮の満ち引きも月の引力によって引き起こされる自然現象である。
 どれほど文明や科学が進んでも、人は月の持つ神秘に魅せられ、果てしなき浪漫と情景を月に求めるものである。
  10月8日夕暮れ過ぎ、夜の帳が下り始めた頃に3年ぶりの皆既月食が始まった。東京は生憎の薄曇りであったが、日本全国でその姿を確認。月が地球の本影(太陽の光を完全に遮る領域)に入り、オレンジや赤の色合いに月が染まる様子を約1時間に亘って観測。
  この皆既月食に纏わる伝説も世界の神話の中に散りばめられており、北欧では太陽と月が2頭の狼に追い回され、「月が狼に飲み込まれた」と捉えられている。 そしてまたインド神話によると、ヒンドゥー教の神・ビシュヌの怒りを買い、首だけにされた4本腕の魔族「ラーフ」が、月を飲み込んでしまう等、「悪が月を飲み込む」と言った説が多く見受けられる。
 いかにも古代人らしい、日蝕や今回の月蝕にしても不吉な予兆として捉えられていたようだが、その人類の叡智を超えた宇宙神秘の前にあっては、まさに「神と悪魔」を象徴していると言ってよいのではないだろうか。
 運よく、この神と悪魔が織り成す天体ドラマを見たという方がおられたなら、ぜひご一報頂ければと思います。


御巣鷹の尾根に悲しみが降る。

御巣鷹山

 うだるような暑さを片手で拭いながら、お盆休みで人影も疎らないつもの定食屋に入った。
秋刀魚定食ね」
「はいよ!」常連だからお互い笑顔を交わす。
「盆休みだってのにやたらと忙しくて今年は盆なしだよ」
「台無しよりいいんじゃないの」冗談交じりの会話を楽しんでいた。
 数分も経たない内に鉄板の上で脂の乗った活きの良い秋刀魚がジュワーっと踊り出す。
「熱いから気を付けて」店長の言葉よりも早く箸を突き刺していた。
 音楽番組だった店内のラジオから突然音楽が消え、同時にアナウンスへと切り替わった。腕時計は午後7時を少し回っていた。
 1985年8月12日午後6時56分28秒、520名以上を乗せた日航ジャンボ機御巣鷹山墜落。私はこの日を迎えるとあの蒲田にある定食屋を思い出す。秋刀魚に刺した箸を止め、ラジオのアナウンスに耳をそばだてていた。
 その日520名の尊い命が山に吸い込まれるように消えたのだった。そしてその後、航空機史上最悪の事故として語り継がれる事となる。然し事故の真相は29年経った今でも謎の部分が多くあると言われ様々な憶測が飛び交っている。
 12日は遺族らの慰霊登山が行われるが、遺族の高齢化により中には人の手を借りなけれ登山もままならない状態かも知れない。どれほど時が流れても遺族の悲しみが癒える事はない。残された者たちに出来る事は、この大事故を風化させる事なく次の世代に伝えて行く事ではないだろうか。
 数多くの魂が眠る山、御巣鷹の尾根に向かって今日は祈りを捧げたい。(合掌)。

相合い傘は恋の花。

相合い傘

 日本列島の約半分が梅雨前線に覆われ、本格的な雨のシーズンである。南の海からは台風8号が虎視眈々と日本列島を狙っており、列島各地で記録的な豪雨が降り続いている。
 そんな鬱陶しい雨の中で唯一微笑ましいのが、最近ではあまり見かけない相合の絵。小・中校時代はかなり流行ったと思う。教室の黒板に誰かが冷やかしで相合カップルを描く。それを見た本人たちは顔を真っ赤にしながら、必死で否定したものである。
 そんな経験を持った人も多いのではないだろうか。私も数回描かれたことがあったが、意中の人ではなかったのでかなり憤慨した記憶がある。
 小学1年生の時の思い出に、今でも鮮明に記憶している雨の情景がある。私の家には子ども用の長靴がなかった。だから雨の日は大人用のを指し、大きな黒い長靴を履いて登校したが、大人用のは幼い子どもにとっては重すぎた。
 長靴も同じで重く歩きづらかった。学校の下駄箱には赤や黄色など色とりどりの長靴が並んでいる。傘も同じように花壇の花のように見えた。そんな中、私の長靴と傘だけが黒くとても汚れて見えて少し恥ずかしい思いをした。
 その日は朝から晴れ間が覗いていた。1年生の授業が終わるのは早い。何の勉強をしたのか理解すらしない内に下校の時間になる。教室の窓から外を見るといつの間にか雨が降っていた。傘が無いとかなり濡れてしまうほどだった。
 クラスメートの殆どが雨具を持って来てはいなかったが、外の雨を見ても誰も慌てる様子はない。親が迎えに来てくれることを知っているからだ。私は誰も迎えに来ない事を既に知っていたので、濡れて帰ることを覚悟していた。校門に次々と迎えに来る母親たちの姿が見える。子どもたちは親から傘を受け取り、親と一緒に家路に着く。
 「雨めあめ降れ降れ母さんが蛇の目でお迎え嬉しいな…」私はこの歌が大嫌いだった。小雨になるまでもう少し待っていようか、それとも思い切って走って帰ろうかと悩んでいた。そんな時だった。「神戸君、一緒に帰ろう」後ろから声がした。
 同じクラスで同じ町内に住む畳屋の浩子ちゃんだった。黄色い傘をすっと差し出し微笑んだ。その横にいた浩子ちゃんの母親を見上げると、ふくよかな顔をさらに丸くして頷いていた。私が初めて経験する相合傘だった。
 大きなランドセルが幼い子どもの背中をすっぽりと隠し、赤と黒が隣同士隙間のないほど寄り添って、7月の雨の中に仲良く消えて行った。

鯉のぼりからの伝言。

鯉のぼり

 屋根より高い鯉のぼり(最近では屋根の方が高くなってしまった気もするが)。5月5日近くになると一般家庭だけでなく、様々な場所で見かける鯉のぼり。江戸時代から始まったこの習慣は、元々武家の間で男児の出世に願いを込めて家の庭先に飾られるようになった。
 それが裕福な庶民にも伝わり雛人形と同様の意味を持つに至った。少子化が進む現在では、都会でのマンション暮らしの家庭が多く殆ど鯉のぼりの泳ぐ姿は見られない。
 鯉のぼりは謂わば家族のシンボルでもある。子どもの頃、高々と5月の空にたなびく鯉のぼりを眺めながら、家にもあったらいいなと思っていた。確かに裕福な家庭で立派な庭があり、家族の多い家庭のシンボルにも見えた。私は一人っ子なので、兄弟、姉妹がいる事の感覚が掴めない。その代わり、友人は多くいるので友人に対する思いは家族と同様である。
 子どもの日は「子供の人格を重んじ、子供の幸福をはかる日」とあるが、近年起こった子どもが被害にあう事件・事故を見ると、人格や幸福どころかそれ以前に大人が親である立場を放棄している現状が余りにも多すぎる。
 子どもと共に親が何であるかを学ぶ事が子育てである。完璧な親などいないし、良い親の定義も存在しない。同じ子どももいなければ、同じ親も存在しない。
 自分の子どもにとって良い親とは何か。それは風を身体一杯に受けて勢い良く泳ぐ鯉のぼりが教えてくれている。家族で同じ方向を見詰め合うことではないだろうか。


猫の成人式。

成人式

 成人式を迎えた二十歳の皆さん、おめでとうございます。わたしは遥か彼方に成人式は終わっておりますが、毎年この時期になると自分が二十歳を迎えた頃のことを思い出し、反省と後悔の念を抱いております。
 昨今では、「荒れる成人式」と言われ成人式の会場などでは、若者の傍若無人な態度が目立ち、関係者も頭を抱えているようです。
 お目出度い席でもあり、お酒なども入ったりして多少気が大きくなっていたり、多勢でやれば何も恐くないという集団心理も働いて公共の場を台無しにしてしまったり。酔いが冷めて一人になった時に「馬鹿なことをした」と後悔しても遅いのですが。
 まあ、それも青春の内ですか?若い内に出来ることは限られているからといって、人に迷惑をかけるようなことはいけません。二十歳は大人になるワンステップには違いないでしょうが、この「大人」が曲者。
 大人とは一体何でしょう。一般的に言えば社会的に自立している人を指す言葉ですが、近頃は自立出来ていない見かけだけの大人が多いですね。
 やはり、自分の言葉や行動に最後まで責任を持つことが大切ですが、若者の手本となる大人が中々見つかりにくい世の中で、如何に自分を見失わず自分らしく生きて行くか、これは成人になった人、これからなる人、もうなっている人それぞれが考えなくてはならない問題であると思います。
 さて、成人式は人間だけのものでしょうか?人間以外の動物でも当然、子どもから大人に成長します。たちにも成人式があってもよさそうですね。成人とは善悪の判断、思慮分別のある人を言いますが、もしかすると人間より優れているのは、あなたの周りにいるかも知れません。
 彼らから大人の意味を教わるとよいかも知れませんね。

サンタクロースからの手紙。

サンタ

 皆さん、クリスマスイヴですね。わたしは多分この記事を書き終わった後、苺のショートケーキと少しだけお酒を頂こうと思っています。さて、トナカイが不足しているためサンタクロースも悩みが多いようです。そこで今年からインターネットを通じて注文を頂き、宅配便によるプレゼントのお届けとなったようです。
 何だか夢のない話になってしまいましたね。クリスマスプレゼントの思い出と言えばわたしの場合、中学の3年間を過ごした天竜養護学校の話題になります。
 天竜病院(旧天竜荘)には当時、1病棟から13病棟まであり、子どもたちの病棟は12病棟と13病棟だけでした。木造の古い建物で、元々サナトリウムでしたから大人の患者さんが殆どでしたが、昭和31年辺りから子どもの病棟が出来たと記憶しています。
 病棟にはおよそ100名ほどの子どもたちが生活を共にしていました。冬は電気あんかを抱いて隙間風を凌ぎながら水道の水も凍りつく寒さの中でそれでも風邪ひとつ引かず、子どもたちは元気でした。家から遠く離れ、家族との面会も月に一回しかありません。
 親も子も会いたい時に会える訳ではなかったのです。下は4歳児から上は16歳くらいの子どもたちだけの暮らしは、それぞれが持つ病気との闘いの中でお互いを励まし会って毎日を暮らしていたように思います。クリスマスイヴが近づいても親からプレゼントを貰うなどという事は出来ません。
 小学校低学年の子どもたちはサンタクロースの存在を信じている子もいました。もちろんわたしほどの中学生になればサンタは夢物語だと分かっていましたが、それを信じている子どもたちには言えません。夢を壊すような話は禁止と、暗黙の了解のように病棟内で決まっていたのです。
 そして迎えたイヴの夜、消灯は20時30分。看護婦さんが見回りに来て各部屋の電気を消して行きます。消灯と同時に寝てしまう子どもなどいませんから、暫くの時間はまだ遊びが続いています。夜も22時頃になると、さすがに小学生は寝息を立て始めます。
 寝入った子どもたちを確かめ、誰かがベッドから起き上がり消灯台の引き出しから何やら取り出し、病室を出て行きました。それも一人や二人ではないのです。 仲間同士で決めた訳でもないのに、皆それぞれがサンタクロースになり切っていました。もちろんわたしもその一人でした。そうして、大部屋と小部屋を行き来して手作りのプレゼントを枕元に置いてくるのです。
 病棟の朝は早く、午前5時には検温のため体温計を脇に挟み、またそのまま寝入ってしまうのです。冬の起床時間は6時30分でした。外は松林に囲まれているため、病室内はまだ薄暗く、吐く息は蒼く凍り付きました。
 検温が終わり、看護婦さんに体温計を渡し終えると、また再び布団の中に潜り込んでしまいました。その時です、足元に何かがぶつかりました。布団をめくって確かめて見ると、小さな紙包みの箱にリボンが添えて置いてあったのです。
 各部屋の子どもたちはもうその頃には起きて、枕元のプレゼントに大喜びしていました。何故?わたしにプレゼント?頭が混乱しましたが、紛れもなくわたし宛のプレゼントでした。中身は白い靴下。そして一通の手紙が添えてありました。
「神戸君、クリスマスおめでとう。これはささやかな神様からの送り物ですよ、早く心臓がよくなるといいですね」名前は書いてありませんでしたが、ひとつだけ思い当たる人物がいました。長谷川さん?しかし結局分からず仕舞いでした。長谷川さんは12病棟で一番恐い看護婦さんで、朝になると子どもたちを叩き起しに来る人でした。
 然し、恐くても皆のお母さん的存在の人でした。今88歳になり福岡でひとり暮らしを楽しんでいます。この時の思い出をクリスマスイヴを迎える度に思い出し、瞼が熱くなってくるのです。

火災を乗り越えて、絶望からの再出発。

蒲田火災

 今から26年前の1987年、わたしは火災により焼け出され住む所もなく路頭に迷っていた。僅か3万円の現金だけを持ち、頼る当てのないまま成り行き任せの上京から6年目の秋を迎えていた。
 当時わたしは、京浜東北線のJR蒲田駅から徒歩7分程度の所にある「コーポ英(はなぶさ)」と言う鉄筋5階建てのマンション301号室に住んでいた。
 大井町にある2万円の木造アパートから一気に7万円のマンションに移り、6年目の暮らしは0からスタートした時と比べれば大きく様変わりし、家財道具や衣装なども増えてそれなりのリッチな独身貴族を味わっていた。
 9月30日のその日も普段と変わらず、少し遅い朝を迎えていた。歩合制の仕事をしていたため、会社員のように時間に縛られる事もなく、請け負った仕事を納期までに収めれば事務所への出社時間などは自由に自分で決める事が出来た。
 朝のシャンプーを終え、軽い朝食を済ませ煙草を一服吸うとそのまま部屋を後にした。水道橋にある事務所に着いたのは昼少し過ぎた頃だった。仕事仲間と雑談を交わしながら時間はゆったりと過ぎて行った…。時計が午後4時に差し掛かろうとしていた時のこと。
 「神戸さん、お友達から電話ですよ」仕事中に電話など掛かって来た事がなかった為、「一体誰だろう…?」と疑問に思いながら電話口に出た。
 その第一声は俄かに信じ難い内容だった。「神戸さんの家が全焼だって…」。電話を掛けて来てくれたのは友人の「多津子ちゃん」だった。「わたしもこれからマンションに向かうから…」。受話器の向こうで嗚咽とも思える悲痛な彼女の声が半分泣き声に変わって行く様子に返す言葉も見失っていた。
 放心状態のまま蒲田方面行きの電車に飛び乗った。自分の身の上に起こった事を受け入れるには時間が余りにも足りなかった。
 火災現場を確認していない事もあり全てが憶測の域を出なかったのは確かであったが、気休めのような言葉は一切浮かんで来ず、頭の中では「全焼」の文字が浮かんでは消えて行くばかりであった。そして容赦なく襲いかかる絶望感と、火災で焼け出され被害に合った人たちへの補償問題が現実となって更にわたしを窮地へと追いやった。
 電車が蒲田駅に着く頃、西に傾いた夕陽で空が赤々と燃えているように見えた。駅を出ると火災がどれほど酷かったかを物語るように焦げ臭い空気が鼻をついた。
 急ぎ足でマンションへと向かう。焦げた臭い以外に街はいつもと変わらぬ佇まいを見せていたが、臭いが徐々に強くなって来るに従い、絶望感と不安は更に高まって行った。
 出火元がわたしの部屋だと友人から聞いていたので、建物全体が跡形も無く焼け落ちてしまっていたらと最悪の想定も頭に入れておいたが、それを考えた所で今の自分にはどうする事も出来ないと、半ば諦めの気持ちでいたのも事実だった。
 陽が落ちて辺りはすっかり暗闇に包まれていた。あの角を曲げればマンションが見える…、胸の鼓動が緊張感で激しく踊り狂っていた。そして自分の目の前に飛び込んで来た光景に思わず我を忘れて胸を撫で下ろした。
 暗がりの中にマンションは朝と同じ佇まいを見せていた。一体この建物の何処で火災があったのか?と首を傾げるほどに静けさを漂わせ白いマンションは立っていた。その中で激しく燃えたであろうと思わせる箇所があった。
 わたしの部屋の窓の所だけが真っ黒く煤けており、明らかに出火元がそこであると主張しているようにも見えた。3階に行くと消防士が二人出迎えてくれた。そして火災の状況と消火作業などについて詳しく説明をしてくれたが、この消防士の対応に思わず涙が溢れて来てしまった。
 消防士が優しかったのは言うまでもないが、火災と言う人生に於いてあってはならない、出来るものなら絶対避けて通りたい災難に不遇にも出会ってしまった時、人はその全てを奪い尽くす炎の前で成すすべもなく泣き崩れるだけだろう。
 消防士は炎を消すのが仕事であるが、火災に遇った本人のダメージを出来る限り最小限に抑えることまでも引き受けている。消火作業にあたっては、水を使わず白い粉の消火剤で鎮火させた事は、家電製品などを出来るだけ現存させて置こうと言う気配りが、絶望の淵にある本人への希望を僅かでも残してあげたいと言う愛情と受け取れたからである。
 部屋の異常にいち早く気付き通報したのは隣人であった。普段全く顔を合わす事もなく挨拶さえ交わした事もなかったが、この時は他人の有り難さを痛感した。火災により部屋の温度が上昇し、おそらく100℃は軽く超えていたものと思われる。
 部屋の分厚い鉄のドアは熱で斜めに歪み、部屋全体は墨を塗りつぶしたように真っ黒く焦げていた。キンチョールの缶が破裂したのか天井の壁に思い切り突き刺さっており、中々取る事が出来なかった。
 その日は友人宅に泊めて貰い、次の日に蒲田警察署に出向いたのだが、そこで待っていた刑事課のデカ長は優しい消防士とは全く逆で、野太い声で思い切り怒られてしまった。
 それも当然の事であるが、出火原因は掴めていなかった。デカ長の話しでは消防車が10台も駆け付け一時騒然となりヘリコプターまで飛んだようだ。
 焼け出され、住む所もなく難民状態になったわたしに日本赤十字社(↑上の画像)から毛布が一枚届いたのは火災から数日経ってからだった。わたしの全財産はその日持っていた現金2万円と着ていた服、そしてアイワのウォークマンだけになってしまった。
 火災に遭って困っている人を援助する機関や手当など行政の取り組みなどを調べてみたが、徒労に終わってしまった。そしてその時に最も力になって支えてくれたのは友人たちだった。普段から付き合いのある仲の良い友人であったが、常に笑顔を絶やさず励まし続けてくれた友人たちには足を向けて眠ることなど出来ないほどお世話になった。
 火災に遭うのはこれで2度目…、上京して一年ほど経った頃、藤枝の実家が全焼している。この時はさほどショックを受けなかったが、幼い頃の思い出が炎とともに消えてしまったと少し感傷的になった程度であった。
 人生に於いて2度も火災に遭う不運…強運と言われ続けて来たわたしの運は不遇の時代によって培われて来たものなのかも知れない。そして蒲田の火災の後、ストレスが原因で持病の心臓病が悪化し、その半年後に余命一年の宣告を受けるに至ったのである。

プロフィール

俊樹

Author:俊樹
本名/神戸俊樹
静岡県藤枝市出身。
19歳の時に受けた心臓手術を切っ掛けに詩を書き始める。
2005年3月詩集天国の地図を文芸社より出版、全国デビューを果たす。
うつ病回復をきっかけに詩の創作を再開800篇を超える作品が出来上がっている。
長編小説「届かなかった僕の歌」三部作を現在執筆中。
父をモデルとした小説「網走番外地」執筆開始。
東京都在住。
血液型O型/星座/山羊座
七草粥の日に産まれる。
2013年より大衆文藝雑誌ムジカにて創作活動中。
詩集・天国の地図 電子書籍化 
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