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薬の増量が希望を打ち砕く。 

増量

 出口の見えない長い長いトンネルに入り込んでしまったようなこの一ヶ月。風薫る新緑の溢れる清々しい季節だと言うのに、春と夏が同居しているようなこの時季、激しい気温差や、低気圧が近づいて来ると酸素が薄くなるため、その影響で体調不良を訴える人も多い。
 5月10日、循環器腎臓内科の外来へ。一時増えた体重は63キロ台に戻り退院時と同じになったにも関わらず、病院までの足取りは重く息切れも酷かった。長い連休明けの外来はどの科も普段の倍に近い患者たちで混雑しており、座るスペースを確保出来ないほどだった。
 退院後の体調があまり芳しくない事を主治医に訴える。日中から夜にかけて両脚が浮腫み、近所のコンビニまで買い物に行くだけで息切れが起こる始末。これまでとは明らかに違う心臓の違和感に不安を抱き、その影響で心も疲弊していた。
 電子カルテを覗き込み、処方されている薬の種類を見詰めながら眉をしかめる主治医。「これ以上増やすとしたら利尿薬くらいしかないですね…」「サムスカ増やせます?」「うーん、それは最後の手段かなぁ…」。「そうなんですか…」。内科的治療の限界点に近づいている事を示唆しているような会話のやり取りだった。
 思い付いたような口調で主治医が言った。「アルダクトン出してみましょうか」。アルダクトンもサムスカやラシックスと同じ利尿薬であるが、前者とは性質の違う利尿作用はそれほど強くはないが、カリウムの排出を抑える心不全治療薬である。カリウムを体内に溜め込むため、高カリウム血症のリスクが増える。そのため定期的な血液検査は必須。
 現状の病態を改善出来るのであればどれほどリスクの高い薬であれ、藁にも縋る思いでその処方に理解を示した。何れにせよ3回目の心臓手術が現実味を帯びて来たことは言うまでもない。
 あと何年この心臓が持ち堪えられるのか、それはおそらく主治医にも分からないだろう。年々悪化して行く心臓に希望をもたらす新薬が登場してくれる事を願って私は今日も生きている。

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うっ血性心不全と抜歯手術。 

抜歯手術

 東京の開花入院中に聞くとは思ってもみなかった。3泊4日程度の短い入院の筈だったが、3月の半分以上を病院で過ごす事になろうとは…。今回の入院抜歯手術を受けるためであり、3月4日の歯科外来で入院の予約を取った。推定される入院期間は2~3日、外来で抜歯という方法もあったが、抱えている心臓疾患とワーファリンによる出血などのリスクを考慮して、入院による抜歯を選択した。
 3月6日、9時30分までに入院受付に行かなければならないため、数年振りに通勤時間帯の満員電車に乗った。入院中は何が起こるか分からない、不測の事態に備えるためパジャマや下着は多めに用意した。
 岩本町駅で降りて三井記念病院までは徒歩15分程度だが、体調が余り思わしくないため息切れが酷く途中何度も立ち止まり深呼吸を繰り返した。この不快な息切れで嫌な予感が脳裏を掠め、「ちょっとやばいかも…」と歩道に向けて捨て台詞を吐いた。
 流れる人ごみの足取りはみな快活で、朝の喧騒が都会の一日の始動を伝えている。病と言う重い足枷を引き摺って病院の門を潜るのとは大違いである。入院受付に着くと、番号札を取り順番を待つ。数分後、簡単な事務処理を済ませ女性事務員に誘導されつつ入院先の13階へと移動。忙しなく肩で息をしている私に看護師が声を掛けて来た。
 「大丈夫ですか?息切れが酷いようですが…」「うん、ちょっと心不全の兆候が出て来て…」心不全のことは全く伝えていなかったため、看護師が驚いた様子で「体重は増えてます?」「一週間ほど前から増えて来て…」「体重測りましょう」。
 体重計に足を乗せると66キロを軽くオーバーしていた。私の標準体重は62~63キロ。僅か一週間で約4キロ増えており、この4キロが殆ど余分な水分で身体中に溜まっているのである。心臓が悲鳴を上げるのは当然のことだった。
 その日の午後に予定していた抜歯手術は急遽延期となり、うっ血性心不全の治療が最優先となった。酸素吸入が始まり、歩行はトイレまで。それ以上の移動は車椅子と酸素ボンベが一緒だった。13階は外科病棟のため、翌日12階の一般病棟へ移動となる。ラシックス20ミリの静脈投与が開始され、水分制限は700mlまで。一日コップ3杯の水さえ飲めないのである。これはかなり辛かったが、水の有り難さを改めて思い知らされることとなった。
 食事に至っては腎不全食のため、塩分は一日4gとこれもまた水分と同様に厳しい内容だった。そうして数日後、漸く体重が落ち始め、呼吸も幾らか楽になったものの胸に溜まった水が中々抜けず、利尿剤のサムスカが増量となる。それが功を奏して入院8日目にしてやっと63キロ台の体重に戻り、心不全の症状も大きく改善した。
 そして15日、本来の目的であった抜歯手術のため、再び13階へと移動。術前の抗生物質の点滴を開始。抜歯は歯科外来の特別室で行われた。上の歯3本を抜くため時間が掛かりそうだったが、意外とすんなり終わり抜歯そのものは40分ほどで済んだ。局所麻酔のため、歯を抜く時の「ミシミシ」という音が頭に響いて血の気が引く思いだった。
 麻酔が切れる頃を見計らって痛み止めのアセリカ点滴開始。3年前の抜歯時、痛み止めのカロナールが全く効かず、2日間眠れぬ夜を過ごし担当医に何度もお願いしてモルヒネを打ってもらったことを思い出した。今回は痛みの不安が早々に解消された点は良かったのだが…。抜歯後の出血さえなければ18日の土曜日には退院出来る筈だった。
 止まらぬ出血に苛立っていたのは私だけでなく、担当医も困り果てていたようだ。「神戸さんのように何日も血が止まらない人は始めてですよ…」。血液をサラサラにする薬のワーファリンとバイアスピリンを長期間に渡り服用しているため、血が止まりにくいのは術前から分かっていることではあったが、私は特に止まりにくい体質のようだった。裏を返せばそれだけ薬が良く効いているとも取れるのだが。
 止血にはガーゼを傷口に当てて噛むしかない。日中はそれでも止まっている時もあるが、夜、眠った後に出血し、口の中に溜まった血液が口元から零れ出てパジャマやベッドのシーツを真っ赤な鮮血に染めてしまった時はショックだった。
 止血用のマウスピースを作りそれを嵌めて様子をみたが、それでも出血は続いた。口の中を何度もうがいする。白い洗面台に鮮血が飛び散りそれをペーパータオルで拭く。その繰り返しだった。術後一週間が経過しても出血が続くため漸く止血剤を使用。すると今までが嘘のようにピタリと出血は止まった。そうして想定外の日々が終わり24日の退院へと辿り着いた。
 24日、歯科外来を受診した後、次の外来を予約して晴れて退院となった。その日はの蕾が一斉に開花するのではないかと思わせるほど温かい穏やかな日であった。それにしても今年も入院なしを目指そうとしていた想いはいとも容易く崩れ去った。抜歯は仕方ないにしても、心不全を起こさない事が目標達成の道しるべであるのに、我ながら情けない結果となった。それでも今回の入院は定期的なメンテナンスと捉え、次のステップとして前向きに受け止めようと思っている。

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うっ血肝と肝硬変。 

CT画像

 このCT画像は昨年11月に撮影したもの。慢性腎不全があるため、造影剤は使わなかった。CT検査を受けるに至った経緯は、肝機能に関する血液検査の数値が異常に高かったためである。但し、数値の異常は10年以上前から続いており、特に身体的症状もなかったことから経過観察の範囲であった。
 因みに、ALP=695(106~322)、γ-GTP261(13~64)であり、数値だけで判断すれば肝障害、胆道疾患の疑いを持って当然である。そして放射線科の医師が下した所見は、肝辺縁鈍化、左葉萎縮、脾腫、両腎随質高濃度、石灰化沈着。診断=肝硬変脾腫
 12月14日の循環器・腎臓内科の外来で主治医から「肝硬変」と聞かされた時、私は返す言葉を失っていた。父親が肝硬変で亡くなっていることから、この病気は遺伝する?と主治医に詰め寄った。父の場合はアルコールによる肝硬変だったから、それは当て嵌らないにしても、肝臓の弱い体質は遺伝しているのだろうと思った。
 小学5年生の時、身体中が怠くてたまらず、一晩中おばあちゃんに足をさすってもらった記憶がある。白目は黄色く、身体中に黄疸が出ていた。おそらく私の肝臓はその頃から悪かったのかも知れない。
 循環器の主治医は「様子を見ましょう」のひと言だったが、腎臓内科の医師が、消化器内科の専門医に掛かる手配を早速してくれた。そして年が明け1月6日、初めて消化器内科の扉を叩いた。担当医は三井記念病院の副院長で消化器では名医として知られている田川一海医師。「うんうん、なるほど…」と呟きながら、CT画像を丹念に覗き込む。
 どんな答えが返ってくるのか私は怖くて仕方なかった。心臓疾患に関して言えば『慣れ』が生じているため『恐怖』と言う感情は時の隙間に吸い込まれた過去の遺物となっているが、新たな病気に対しては心臓と同類に受け取る訳にはいかなかった。
 「うん、肝硬変じゃないね…」「ええっ?違うんですか??」。私は天と地がひっくり返ったかのように驚き、もう一度「肝硬変じゃないんですね?」と念を押すように質問を投げかけた。田川医師は、紙に図を描いて詳しく説明をし始めたが、私の頭は肝硬変ではなかったことに安堵し、説明はうわの空だった。
 「超音波検査してみましょう、いつがいいかな?」「では来週の月曜日でお願いします」。そして1月16日、再び来院。超音波検査の結果、うっ血肝、脾腫、胆嚢腺筋症(RA洞=ロキタンスキー・アショフ洞)である事が判明した。
 肝臓と脾臓がかなり腫れて肥大しており、更には胆嚢に袋状の構造をした部屋(憩室)が出来ていることが新たに発見された。然しそれは形成奇形であり、おそらく生れ付きのものと思われる。腫瘍でもなく炎症でもないことから治療の必要性はないようだ。
 うっ血肝と脾腫に関しては慢性心不全を抱えているため、十分な血液が臓器に行き渡らず、障害を生じている状態との診断結果だった。要するに心不全を悪化させない事が最優先事項であり、現時点で肝臓の薬『ウルソ』を使う必要性はなし。
 ALPとγGTPの数値が異常に高い原因について、大量の薬を服用しているためではと尋ねてみたが納得のいく回答は得られなかった。何れにせよ、肝硬変の疑いが晴れたため、病院の帰り道が温かい春の陽射しを受けて希望に光る舗道に見え、これでまた一つ寿命が延びたような気がして足取りも軽く帰路に着いた。そして良い医師に巡り会えたことに感謝。

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翼を拡げ、新たな年にチャレンジ! 

翼を拡げ

A Happy New Year 2017

 時計が午前0時に差し掛かろうとしていた。「ゆく年くる年」を見ながら除夜の鐘に耳を傾ける。その鐘の響きで凡ての煩悩が消える訳ではないが、心地良い音色に変わりはなかった。2016年の想いが鐘の音とともに溢れ出して来る。
 「今年こそは入院しないぞ!」と誓った元日の陽射しは眩しく、希望の光の如くに輝いて見えた。そしてその目標は現実となり、今こうして時を跨いで新年を迎える事が出来た。「やれば出来るじゃなか…」と呟き、達成した安堵感に包まれている。
 病院外来での検査データを見る限り、決して良くなっている訳ではないが、良くなろうとする前向きな姿勢が大切なのである。
 多くの善良な人たちに見守られ、時には励まされながら着実に目標に向かって歩を進めて来た。酷い不整脈に見舞われ心が音を立てて折れてしまった事もあったが、愛猫タラの意外な登場で救われたりと浮いたり沈んだりしながらも、常に忘れなかったのは「諦めない」の意地にも似た心境だった。
 諦めてしまった方が楽だろう…なんて決して思わぬふてぶてしさは、途方もなく長い闘病生活の中で培われて来た闘志と言えるのかも知れない。
 治る見込みが失われても与えられた「生」の中で最善を尽くすことが生きる事に大きな意味を与えてくれる。この先、何年生きられるだろうなんてネガティブな発想は捨てて、「100歳まで生き延びてやる」くらいの意気込みで日々闊歩して行こう。
 今年の目標は敢えて決める積りはないが、酉年に因んで(由来に関係なく)翼を拡げ大空に羽ばたく鳥になり、あらゆる意味に於いてチャレンジの年にしたいと思う。
 皆様に幸福の翼が舞い降りる事を願いつつ、昨年同様に本年も私とこのブログをよろしくお願い致します。

2017年1月1日 ベッド上にて執筆。

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入院ゼロまでのカウントダウン。 

三井記念病院

 時の流れは想像以上に早く感じるもので、今年も余すところ後1ヶ月と少し。昨年を振り返ってみると丁度今頃は心不全で三井記念病院に入院中であった。年の始めになると毎年のように抱負を語るが、今年もやはり「入院しない」だった。その抱負がもう少しで現実のものになろうとしている。
 過去5年間を振り返ってみると、2012年は1月の循環器外来時、心臓が肥大していたため入院を勧められたが、愛猫タラがいたため入院を断り自宅にて静養。それも入院に含めれば100%の確立で入院を余儀なくされていた。
 最も酷かったのは2013年1~4月に掛けて。既にご存知の方も多いと思うが、私の長い闘病履歴から見れば「万事休す」そのものだったのが脳梗塞である。右半身が完全に麻痺した時の恐怖は簡単に言葉で表せるものではない。然しながら幼い頃から強運の持ちである私はこの時も奇跡的な復活を果たした。
 僅か10日で退院出来、喜び勇んでいたのも束の間で退院から1ヶ月で心不全のため救急搬送、約1ヶ月の入院治療で4つの心臓疾患に加えて慢性腎不全と言う厄介な病名が追加されてしまい、これまで以上に水分管理・食事制限が厳しいものとなった。そしてその年3回目の入院は4月下旬、やはり心不全だった。
 それ以降は毎年11~12月になると救急車を呼ぶ羽目に…。これらは全て自己管理を怠ったための謂わば自業自得の結果であったが、将来的に3回目の心臓手術も視野に入れる可能性が浮上した時、これまでの情けない自分を戒めるように決意を現実のものにする覚悟を決めた。
 病気は自分一人で乗り越えられるものではない。そこには多くの医療関係者、友人、知人、そして同じような悩みを抱える仲間たちがいる。その存在なくして今の自分は有り得ないだろうし、今年の抱負に現実味が増して来たのも応援してくれる有り難い仲間がいるからだ。
 今年も多くの善意に助けられ、感謝の極みである。そして入院を回避出来た事は将来に向けて大きなステップとなり、新たな希望の光と自信に繋がってくれるだろう。今年がまだ終わった訳ではない、手綱を引き締めて油断せぬよう残りの日々を送りたいと思う。

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副作用と心不全の狭間で…。 

副作用

 約3週間の休養を経て何とか復調はしたものの、ホルター心電図の結果が余りにも散々だったため、普段それほど落ち込まない私も流石に心が折れそうになった。「こんなに不整脈の多い人は滅多にいません」とまで言われてしまい、一気に不安が押し寄せて来た。
 健康な人でも1日1,000~1,500の不整脈は発生しているが、それらは病気ではなく全く異常な事ではない。私の場合は1日に約1万8千発の不整脈が発生しており、しかも原因が多岐に渡る多源性。重症度を示すLown分類は5段階中グレード4a:2連発とかなり悪く救急治療が必要とされている。
 それに対処するため、メインテート(ベータブロッカー)の増量となったが、過去にこので心不全を誘発した経緯があった手前、主治医も慎重に成らざるを得ず、異変が生じた場合は私自身の判断で減量するようにとの事であった。
 副作用が出ない事を願いつつ、服用を始めて3日目辺りから荒れ狂っていた不整脈が少し大人しくなって来た。これほどストレートにの効果を実感出来たのは久しぶりの事であったが、それだけ強力なでありそしてまた裏を返せば副作用もまたかなり強いという事である。
 異変が生じ始めたのは1週間が過ぎた頃からで、足が少し浮腫み体重も増え始めていた。「やっぱり出たか…」と、その副作用のせいにはしたくなかったが、日増しに体重は増えて行き服用を始めて10日目には65キロを軽くオーバーしてしまった。
 こうなって来るとそれは一気に心臓への負担となって現れ、少し歩いたりするだけでも息切れがして呼吸困難となり明らかに心不全の兆候である。念のために病院へ連絡を入れ、症状を伝えると「を元の量に戻して様子を見ましょう」との指示が出た。
 それでも変化がなく症状が続いていた場合は来院し、場合によってはそのまま緊急入院も覚悟していたが、減量して数日も経つと浮腫みも無くなり体重も徐々にではあるが落ち始めた。然しそれまで大人しかった不整脈が再び暴れ出し、太鼓の乱れ打ちがまた復活してしまった。
 心不全の苦しみを我慢するのはとても辛いし、それを思えば脈の乱れなど取るに足らないと長い闘病生活の中で『慣れ』が生じていたのは確かであるが、この不整脈もそれはそれで一大事なのである。
 さて、次の循環器外来まで1ヶ月近くあるのだが、主治医は次なる一手を既に考えているのだろうか?今年はここまで入院せず何とかやって来たが、だからと言って去年より体調が良いとは思えない。病は気からと言うようにメンタルな部分も大きく影響してくる訳で、ここで自分自身が落ち込んでしまってはますます病状悪化に拍車が掛かってしまう。
 私の闘病に終わりはなく最後まで病に対しチャレンジャーであり続けたいと思っている。その内きっと雲の切れ間から差し込む光のように、明るい未来がやって来るかも知れないのだから。

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不整脈とホルター心電図。 

ホルター

 まず始めにお笑いタレントの前田健さん(44)が先月26日、不整脈による虚血性心不全のため搬送先の病院で急逝した。多彩な才覚のある芸人だっただけに非常に残念である。この場を借りて心よりお悔やみ申し上げます。
 さて、そんな私も不整脈との付き合いは長く、心臓弁膜症と診断された子ども時代にまで遡る。最も酷かったのは11~13歳の時で、手摺に掴まりながらでないと階段を上る事すら出来ず、死ぬような思いをしながら5階にある教室に向かったが、それが原因で学校へ行くのが嫌で堪らなかった。
 更には中学1年の時、心臓発作を起こし意識を失い倒れた経験が2度あるが自力で蘇生し家に帰った。傷だらけの顔を見た祖母が「どうしただ!」と驚いた表情を今でも鮮明に覚えている。私の前歯は少し欠けているが、それはこの時に顔面から地面に倒れ込んだためであるが、運良く鼻は無傷だった。
 そんな過酷な子ども時代を生き延びて来たからこそ今の自分が在るわけだが、改めて病歴を振り返ってみると、長きに亘る闘病生活は、ある意味で私の生きるエネルギーそのものではないかと思ったりもする。
 今年はまだ一度も入院していないのでいつもより調子が良いのかと思いきや、実はそうでもなく入院するほどの事はないが、軽い心不全は日常的に起こっており、動悸息切れは顕著に発生している。
 循環器外来の時は血液検査以外に必ず『心電図・胸部レントゲン』は欠かせない。今年の3月下旬に診察を受けた時、心電図の結果を見て主治医が言った。「不整脈が乱発していますね…」。1月受診の時もやはり酷い乱れ方だったが、寒さのせいもありもう少し様子を見ましょうと言う見解だった。
 「先生、そんなに酷いのですか?」「そうねぇ、数分の間に二段脈が二連発出ているし…」。乱れた波形を見ても私にはいつもと同じにしか見えなかったが『心室二段脈』と言う部分が妙に気になっていた。「24時間心電図やってみますか…」。
 一日ホルター心電図を身体に取り付け、通常通りの生活を送る。その結果、長時間に亘り不整脈が二連・三連発と発症していれば何かしらの対処をしなければならない。おそらく投薬量が増えるだろうが、使用量を間違えると心不全を招くリスクが高くなる。薬は諸刃の剣だから匙加減が行方を左右する。
 ホルター心電図は、余命一年の宣告を受けたその半年前、蒲田の大田病院に通院中受けたのが初めてで、今回で3回目となる。その当時は通称『弁当箱』と呼ばれており、かなり大きくまさに『弁当箱をぶら下げている』状態だった。現在では写真を見てもお分かりの通りサイズも小さく性能も格段に上がっているようだ。
 動悸息切れ・胸痛などを感じた時は即座にスイッチを押し、一緒に渡された記録ノートに書き込んでおく。期外収縮心房細動が私の不整脈であるが、後者の方は1分間に400~700回と心臓がブルブル震えている状態であるため、絶対性不整脈と呼ばれており、血栓が非常に出来やすい。そして規則性のない心室期外収縮が頻発している場合は危険で、突然死を招く心室細動に以降する場合がある。
 このようにして日々リスクを抱えながら生きているけれども、自分ひとりの力だけでは生きられない。多くの人たちの助言や応援を受けながら、そしてこのブログに訪れる皆さんに支えられ今を生きている。そんな人生がこれからも末永く続くようにと願いを込めて…。いつもの事ではありますが、今回もブログお休みの件で皆さまにご心配をお掛けしましたこと深くお詫び申し上げます。

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心不全シンドローム。 

11入院

 11月17日、救急外来の時計は午前0時を回っており、こんな深夜に救急車で運び込まれたのは始めての事だった。それでも心不全の兆候が現れ始めて直ぐに連絡を入れた為、点滴を必要とする事もなく内服薬だけで入院も短期間で済んだ。
 ところが自宅に戻って一週間ほど経った頃、38℃の発熱。市販の薬は使えないため、栄養ドリンクをお湯割りにして飲み、二日間寝込むと熱は下がったが、また暫くして今度は呼吸困難と息切れが…。
 深呼吸をすると胸の奥がキュッと締め付けられるような、心不全の症状とは明らかに違うため、再入院を覚悟したが退院して間もないため、自分の免疫力を信じ自力で治した。16日の循環器外来でその事を話すと、直ぐ外来へ来るようにと主治医に怒られてしまった。
 インフルエンザに限らず何らかのウイルスに感染し炎症を起こしていた場合、最も危惧されるのは、心内膜炎やウイルスによる人工弁閉鎖不全。最悪の場合は緊急手術となるからで、主治医が怒るのも当たり前の事だった。
 さて、人工弁と言えば、阿部寛が主演する人気ドラマ『下町ロケット・ガウディ計画編』では、国産初の心臓人工弁の開発が至上命題となっており、心臓弁膜症で苦しむ多くの子どもたちの命を救うと言う、医療ドラマとしても見応えのある内容となっており、私も関心を持って観ていた。
 かつては私も弁膜症に苦しむ子どもであり、11歳の時から長きに渡り闘病生活を送る事となったが、東京から入院先の藤枝市立志太総合病院へ著名な心臓外科医が招かれ、私も診察を受けた。体力の無い幼少期では手術をしても助かる確率は50%以下と低く、体力が着く年齢を待って手術に踏み切る方が賢明と言う見立てだった。
 そして19歳の春、3月に静岡市立病院の心臓センターに入院し、静岡県では最も腕の良い心臓外科医『秋山文弥医師』の下で僧帽弁形成術を受けた。当時の生体弁や人工弁は耐久性に劣っていたため、年齢と弁の損傷を鑑みた上で最も適した術式となったが、それは将来もう一度手術を受ける時期が来る事を予見していた。
 そして33歳になった時、蒲田自宅火災のストレスが引き金となり弁膜症が急激に悪化。三井記念病院の循環器センターを受診、担当医から『余命一年』を告げられ弁置換術を受ける事となった。埋め込まれた人工弁は、米国セント・ジュード・メディカル社製のSJM弁と言い、『パイロライトカーボン』と言う素材で出来ており、耐久性と信頼性に最も優れた機械弁で現在でも主流となっている。
 この手術により弁膜症は劇的に改善し、蒼白の顔面が紅味を帯び見る見る内に元気を取り戻す事が出来た。内服は一生続けなければならないが、入院のような闘病からは解放されるとその時は思っていた。
 術後15年を経過した辺りから異変が生じ始めた。心臓の右心房と右心室の間にある三尖弁の逆流、そして糸球体腎炎の疑い。この二つの病変については治療の必要性なしとの見解であったが、どちらも弁置換術の副産物でもあった。そして2008年6月、不安定狭心症で緊急入院。カテーテル治療により右冠動脈にステントを挿入。この時の検査で『収縮性心膜炎』の疑いありと診断される。
 このようにして現在の自分に至る訳であるが、年齢と入院を重ねて行く度に心臓は良くなるどころか悪化の一途を辿るばかりであり、薬の種類は覚えることさえ面倒なほどに増え続けて行く。それでも自分を諦めず、未来の医療に希望を託し生き続けている。こんな傷だらけの私ですが、来年も私とこのブログを宜しくお願い致します。

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薬とため息の日々……。 

一包化

 8月下旬の事だった。それまでの猛暑から一転、気温低下と共に体調に異変が生じた。花火を見に行った時の元気は影を潜め、体重が微妙に増え始めていた。脳梗塞を患った2年前から介護保険を利用出来るようになり、週に一度、訪問看護ヘルパーさんが来宅してくれるようになっていたが、まさか自分が介護を受ける身になるとは思ってもいなかったし、外見は何処から見ても健常者と変わらず重労働以外なら何でも自分で出来たが、主治医の見立ては自分が想像していたより悪かったのだろう。
 木曜日の午前中、訪問看護師に体調の悪さを訴えた。バイタルチェックをしながら看護師が話し掛けて来る。「猛暑から急に気温が低くなったからねぇ…」私の手足を触りながら「うーん、冷たい…血行が良くないね」。心臓のポンプ機能が低下しているため、身体の末端まで十分な血液を送り出せない状態なのであるが、入院するほどの心不全には至っていないのがせめてもの救いだった。
 食事制限をしっかり守っているにもかかわらず体重が増えて来るのは、水分の摂り過ぎによるものらしい。一日1.5リットルを守る難しさを、この夏は改めて思い知らされた。「薬はどう?飲み忘れとかないかな?」。
 この二十数年間、薬の管理は全て私一人で行って来たし、薬の種類、飲み方、効能、副作用も頭の中に叩き込んである。だから薬については自信はあった筈なのだが…。入退院を繰り返して行く内に、薬の数は増えて行くばかりで、種類が変わっても減る事はまずなかった。
 大量の薬をシートから出すとみな同じ色、形だったりするから区別が付かなくなる。手の平から零れ落ち床に転がる薬もあっただろう。日々の命を繋ぐ大切な薬だからやはり飲み忘れが一番怖い。看護師もその点を察知して、『薬の一包化』を提案してくれた。何十年も薬を服用しているのに、一包化と言うそんな便利な事が出来ることすら知らなかった。
 そして薬局探しを看護師に依頼、服用している薬がその薬局で全て扱っているとは限らないため、事前に薬の内容を薬剤師に伝える必要がある。薬局は薬を『薬の問屋』から購入して、患者に提供している。薬局に行けばどんな薬も揃っていると思うのは大間違いなのである。
 一包化を提案してくれた看護師さんと、そして一包化を快く引き受けてくれた地元の薬剤師さんに感謝(一軒目は断られた)である。これでもう飲み忘れも飲み過ぎもなくなり不安は解消されたのだが…。

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術前検査と7年振りの心臓カテーテル。 

カテーテル
 
 昨年12月の退院から僅か2ヶ月余りで再入院。年頭に掲げた『今年は入院0を目指す』は早々に脆くも崩れ去った。2月初旬辺りから体重が徐々に増え始めた為、かなり食事に気を使っていたのだが、やはり限界だった。
 2月14日の夜、三井記念病院の救急外来へ電話を入れ『心不全の症状が出ている』事を看護師に伝えると、これまでとは違い「タクシーで来れますか?」と意外な返事。話している感じから救急車を呼ぶほどではないと判断したのだろう。
 入院グッズを大きなバッグに詰め込み、タクシーを呼んだ。土曜日の夜と言う事もあり、渋滞する事もなく道路もスムーズで1時間も掛からず病院へ到着。「じゃ、お大事に…」運転手の労いの言葉を背中に受けつつ、夜間受付のドアを開けた。「神戸さんですか?」薄暗いロビーに居た警備員が声を掛けて来た。
 夜間受付の女性事務員がやって来て待合室に通される。重たいバッグが心臓に更に拍車を掛け、立っていられないほど息切れも酷く、受付の椅子に座り込んでしまった。事務員が運んで来た車椅子に移り、救急外来の処置室へと入って行った。
 当直の医師と研修医、そして循環器内科の医師が、いつものように私の心臓を調べあげて行く。レントゲン、超音波、心電図、血液検査…。前回入院した時のデータと照らし合わせつつ、「今回の方が重症かな…」と意外な言葉が返って来た。
 いつも「もっと早く来なければ駄目」ときつく看護師から言われ続けていたので、自分ではかなり早目の来院だと思ったのだが…。多少辛くても強がって見せる自分が今回も裏目に出たのかも知れない。酸素吸入と左腕に点滴を施し、ベッドのまま入院棟へと運ばれた。
 病室も前回と同様で循環器病棟の715号室。その部屋はまるで私の為に開けて待っていてくれたかのように静かに佇んでいた。土日に掛けての入院だった為、担当医が決まるのは月曜日だったが、それもまた前回と同じS医師であった。
 検査の為、車椅子で移動している最中に私のリハビリ担当で理学療法士のY先生と鉢合わせ、顔を見るなり「あれー、かんべさん、戻って来るのがちょっと早いんじゃないの?」笑みを浮かべながらの挨拶に「そうですよねー、早すぎです…」と私もまた照れ笑い。
 入院4日目、循環器内科部長が数人の医師を引き連れて私の元にやって来た。開口一番「手術についてですが…」と、いきなり心臓の手術について触れて来た為、「とうとうこの日が来たか…」と腹を括った。短期間で心不全を繰り返し、入院を重ねて行く内に心臓はダメージを受け続け、回復力も弱まり内科的治療も限界点に達しようとしていた。
 これ以上薬を増やす事も出来ず、薬そのものの効き目も思う様に効果を上げて来ない。この辺が潮時で、外科的治療に踏み切った方が良いのではないかと言う医師たちの見立てである。心不全の病根となっている『三尖弁逆流』『収縮性心膜炎』この2つについて外科的アプローチを行う訳であるが、手術をしたからと言って26年前に受けた『僧帽弁置換術』の時の様に、状態が劇的に改善されると言う保証は何処にもなく、3回目となる開胸術の為、医療ドラマに度々登場する『癒着』が激しく、それらを剥がして行く作業がかなり手術事態を難しくする事も予想が付いた。
 次の日から手術を前提とした術前検査が始まった。『CTスキャン』『弁透視』『肺拡散能力』等など。そして是が非でもやっておかなければならない検査が『心臓カテーテル』。慌ただしい検査の連続をよそに心不全の状態は徐々に改善され、23日に一般病棟の14Fへと移った。
 そして27日、午後1時30分、心臓カテーテル室へ。この部屋に入るのは、2008年6月、不安定狭心症で緊急入院し、カテーテル治療により右冠動脈にステントを入れ、辛くも一命を取り止めて以来、7年振りの事となる。左手首の動脈と、両足付け根の静脈と合わせ3箇所からのカテーテル。局部麻酔だから意識は鮮明で、医師や看護師の言葉や行動が手に取るように分かった。検査は予定通り約2時間で終わり、後はベッド上で4時間の絶対安静へ。
 足の方は4時間が過ぎれば自由に動いてよいのだが、手首の方は圧迫止血バンドを装着した部分が痛み出して余り良く眠れなかった。次の日の夜、担当医から検査結果の説明を受けた。余命1年の宣告を言い渡された時のような緊急を要する状況ではない為、今回は手術を見送る事にした。但し、年に2、3回と入院を繰り返す様であれば手術を受ける事になるだろう。
 まな板の鯉が切られて元気を取り戻し、再び大きな池に放たれて勢い良く泳ぎ回る…そんな姿を想像しながら、手術を前向きに捉え希望の灯火として受け止めようと思っている。ワーファリンの効き目が中々安定しなかった為、予定より2日遅れて3月7日退院となった。
 皆さんにご心配をお掛けした事をお詫びするとともに、今後も末永く見守って頂けると有難いです。どうぞ宜しくお願い致します。
管理人 神戸俊樹

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頑張れ心臓、負けるな腎臓! 

入院

 今年2度目の緊急入院となった11月28日、『心不全』の場合は必ず救急車を呼ぶ事となる。三井記念病院の救急外来に電話を入れ、「数日前から体重が4キロ増加し、起坐呼吸でないと苦しい」旨を看護師に伝える。
 「救急車を呼んで下さいね…」予想通りの返答で、119へ…。数分後『ピーポーピーポー』が聞こえ始め、3人の救急隊員が椅子型ストレッチャーと心電計を持って私の部屋へとやって来た。『期外収縮』と『心房細動』そして『ST低下』等の不整脈がある事を隊員たちに伝える。
 もうすっかり乗り慣れてしまった救急車が、夜の闇に白く浮かび上がって私を待っていた。出来る限りの不安を取り除こうと、救急隊員の優しい声が私の身体を包み混んで行く。「人はどうしてこうも優しくなれるのだろう…」蒲田の自宅アパートが火災に遭った時も、消防隊員の胸を打つほどの優しい言葉に涙が流れたほどである。
 救急外来では、その日の当直医2人(研修医1人)が心電図や心エコー、レントゲンなどで心臓の状態を調べ、血液検査の結果を待って入院の有無を決めるが、私の場合は入院必至である。但し今回は今までよりも症状が比較的軽かった為かCCUへは入らず、循環器病棟での治療となった。
 様態が落ち着いた12月9日、一般病棟の18階へ移動。最上階の19階はVIP患者専用の個室病棟で、1日8万円となっている。高層階からの眺めは絶景で、富士山、ディズニーランド、スカイツリー等が望める。
 私は今回の入院で自分が重病人である事を今更ながら再認識する事となった。20代そこそこの若い看護師が言った。「かんべさんは自分が重病である事を自覚してないみたいですね?」「うーん、そうかも知れない…病歴が余りにも長いと病気の感覚が麻痺しちゃうんだよね」「サムスカを15mgも服用している患者さん初めて見ましたよ…」。
 今回の入院で初めて投薬されたのが『サムスカ』であった。これは利尿薬として最もポピュラーな『ラシックス』と比べて若干作用が異なっている。体内の余分な水分やナトリウムを体外へ排泄し、浮腫を解消する訳であるが、カリウムなども一緒に排泄されてしまう為、使い過ぎると『低カリウム血症』を招くと言うリスクを伴うラシックスに対し、単純に水分のみを排泄してくれるのが『サムスカ』である。
 更に腎臓への負担もラシックスに比べると遥かに優しいと言う利点もあるが、効き過ぎると脱水症状を招く為、外来で管理出来る量は7.5mgまでと言う厄介な部分もある。
 いずれにせよ、入院を重ねる毎に回復力が弱まっている事を思い知る結果となった。1日塩分6g、タンパク質40g、1600キロカロリーと言う『腎不全食』を自宅で再現し持続させる難しさを痛感し、心が折れると言うより『心が捻じ曲がってしまった』ような敗北感をこの入院生活中に味わう事となった。
 それでも私は多くの優しい人たちの善意に包まれ、そして生かして貰っている訳で、それに対し私は出来うる限り最大限の努力をして、皆さんの気持ちに応えて行かなくてならないと思っている。更に闘病は果てしなく続くけれども、こんな私とこれからもどうか宜しくお付き合い頂ければ幸いです。

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薬だけに頼らない生き方を学ぶ。 

服用

 先日、三井記念病院に依頼しておいた『診断書』が手元に届いたのであるが、傷病名が6つも付いていたので我ながら唖然としてしまった。自分の病歴を振り返ってみて小学生の頃、祖母に言われた言葉を懐かしく思い出した。
  「俊樹は身体に爆弾を抱えているのだから、絶対に無理をしてはだめだよ」。その爆弾がいつ爆発するかも知れないと言う『恐怖』を常に抱きながら、蓮華寺池のマラソン大会に出て最後まで走り切った時、池の水面を走る風を見詰めながら「このまま死んでもいい―」と、地面に蹲ってしまった事など、思い返せば『死の淵』を幾度となく経験しつつも、こうしていまだに生き永らえている。
 そうやって気付くといつの間にか『僧帽弁置換術後』『心房細動』『三尖弁閉鎖不全症』『収縮性心膜炎』『虚血性心臓病(冠動脈ステント留置後)』『糸球体腎炎』と病気は増える一方だった。
 病気が一つ増える度にそれに比例して増えていくたち。この多くのによってわたしの命は繋ぎ止められているのは確かだけれども、だけに頼っていては『Quality of Life』は得られない。
  病気は治らないかも知れないが、今の自分に出来る事は限られてはいないという事。患者と医者は持ちつ持たれつの関係であり、自分の病気の症例が将来の医学に少なからず貢献している筈だというプラス思考で捉えてみれば、人生に於いて無駄な病気は一つもないという結論に到達するのである。
  わたしは心臓病のお陰で『詩』に出会い、そして詩が書けるようになった。天国の地図の冒頭を飾っている『手術台に上がれば』は、まさにその記念すべき作品でもあるわけで、病気によって失ったものは数多くあるけれど、神様はその代償としてわたしに『詩』を与えてくれたのである。

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モルヒネと26年振りの手術室。 

2014入院

 2014年の正月を無事に迎える事が出来、今年こそは入院0を目指そうと意気込んでいたその矢先の事だった。それは僅かな歯の痛みから始まったが、それがやがて緊急入院の切っ掛けになるとは思いもしなかった。
 1月20日、昨年末に予約しておいた三井記念病院の歯科外来へ行き、痛みのある奥歯の事を伝え、一週間後に神経の治療をする事になり、痛み止めのロキソニンと抗生剤を三日分処方して貰った。翌日の朝、左顎に違和感があり少し腫れているように思ったが、さほど気にも止めず処方された薬を服用してやり過ごしたが、22日の朝、鏡を見ると左の頬が昨日の倍ほどに大きく腫れ上がり、口を大きく開ける事もままならなかった。
 痛みはそれほどでもなかったが、その腫れ具合からして尋常ではない事が起こっていると察しが付いた。夜になってから流石に心配になり救急外来へ電話を入れると、明日朝一番に歯科外来へ連絡するようにと告げられた。
 この時、既に入院の予感が脳裏を掠めたので心の準備だけはしておいた。翌朝8時30分丁度に電話を入れると、「腫れてしまいましたか…」と、予想していたかのような返答だった。直ぐに来院する事と入院の可能性もあるとの事だったので、入院グッズをバッグに詰め込み支度を済ませた。
 体重も増えて心不全の兆候もあったが、顎の腫れで救急車を呼ぶ訳にもいかず、かと言って電車で行く元気もなかったのでタクシーを呼んだ。
 歯科外来の待合室にいる時、看護師がやって来て顔の腫れ具合を確かめて行った。1時間ほど待った後、診察室に入るといつもの担当医が「かんべさん、ごめんなさいね…」と頭を下げて来た。担当医はわたしが心不全を繰り返し何度も入院している事を知っているし、心臓の事を気遣ってこれまで歯の治療をしてくれていたのだが、今回の腫れを起こした炎症が心不全の切っ掛けにもなっているのだろうと責任を感じている様子に見えた。
 「入院になりますので、内科と連携して治療に当たります…」
 昨年と同様に12階の一般病棟へと緊急入院、心不全も併発している事から、担当医は歯科と内科の二人が付いた。左蜂窩織炎(ほうかしきえん)での入院となる為、循環器ではなく、一般内科のようであるが、治療方針は前回と同様、ヘパリンに加え抗生剤点滴、そして体重を落とす為に利尿剤のラシックス投与となり、先ずは「左蜂窩織炎」と心不全の治療が優先される事となった。
 炎症を起こしている部分や歯全体の検査をした結果、残存不可能な奥歯が親知らずも含め3本ある事が分かりその3本とも抜歯しなくてはならず、炎症が収まり心不全が軽快した時点で抜歯手術を受ける事となった。
 2月5日、心不全が軽快した為、一旦内科を事務手続き上退院となり、翌日6日に病棟もベッドもそのままで今度は歯科・口腔外科での再入院となる。手術は6日の夕方5時頃を予定していたが、2時間ほど早まり午後3時半頃に手術室からお呼びが掛かった。
 薄いブルーの手術着に着替え、点滴のヘパリンは外して車椅子で看護師一人に付き添われ7階にある中央手術室へと向かった。手術室へ入るのはこの病院で「僧帽弁置換術」を受けて以来26年振りの事となるが、今回は意識を完全に保ったままの入室である。
 7階入口に到着すると、執刀医や麻酔科医、手術室看護師ら数人が笑顔で出迎えてくれた。その横には既に手術を終えた患者が一人、ストレッチャーに乗せられて病棟へと戻る所であった。ドアが開き中へと入って行く。
 物々し医療器材があちこちに見受けられたが、そこから更に部屋が幾つかに別れており、私はその中の第9手術室へと運ばれた。約15畳ほどあるかと思われる空間の丁度真ん中辺りに小さな手術台があり、その上から手術用の照明器具である「無影灯」が満月の様に白く輝いていた。
 その周りを囲うように立ち並ぶ医療器材の数々はどれも見覚えのあるものばかりだったが、人工心肺だけは見当たらなった。車椅子からその小さく狭い手術台へと移り、仰向けになった。顔が動かぬ様に頭の部分が枕で固定され目隠しをされた後、口の部分だけが大きく開いた布らしき物が顔に被せられた。
 バイタルチェックの準備も整い、執刀医や第一助手が優しく声を掛けて来る。
 「麻酔を数本打ちますからね~、ちょっと痛いけど御免なさいね…」
 「直ぐ傍にスタッフがいますから何かあれば合図して下さいね」
 「メリメリ、ミシミシ…」「はーい、一歩抜けました」それは想像していたより遥かに容易く抜けてくれたようで安心したのと、ワーファリンの影響でかなり出血するのではと不安が募るばかりであったが、そんな不安も取り越し苦労に終わってくれた。
 続けざまに、2本3本とトラブルもなく予想時間の2時間を大幅に短縮して抜歯手術は終わった。
 「麻酔が切れるとかなり痛みますよね…」私はその後の事が気になっていたので訊いてみた。
 第一助手が抜いた歯を3本小さなケースに入れて渡しながら言った。
 「48時間が痛みのピークです、個人差はありますが痛み止めもありますから…」
 私は抜けた自分の歯を見詰めながら、小さく頷くと車椅子に移り「これからが大変かな?」と独り言を呟いた。部屋の外に出ると病棟の看護師が笑顔で待っていた。
 「随分早く終わりましたね~、出血も殆どなくて良かったですね~」
 「想像していたより簡単に終わってくれたみたいで安心したよー」と私も笑顔で言葉を返した。ベッドに戻り暫くすると抜いた部分にジワジワと鈍痛が走り出した。様子を伺いに来た看護師にすかさず痛み止めをお願いした。処方された痛み止めは私が予想していたロキソニン等と違って「カロナール」と言う薬だった。それを2錠服用し痛みの去るのを待ったが、時間が経っても一向に痛みは治まらない。
 薬が効かない事を告げると次は「ペンタジン」の点滴が始まった。抗生剤の「ヒクシリン」も始まっていたので、点滴瓶を2本ぶら下げる事となった。然し、そのペンタジンも効果がなく痛みは治まってくれない。
 その内に今まで出血していなかった傷口から夥しい出血が始まる。殆どの患者が寝静まっている病棟で、私だけが痛みと出血に悩まされ続けていた。止血はガーゼを傷口に押し当てるしか方法がない。然し、痛みでガーゼをまともに噛む事すら出来ず、うがいとガーゼ交換でまる二日眠る事が出来なかった。
 ガーゼが役に立たない事から、抜いた部分を型どって透明の止血プレートを作り、それを被せて漸く出血は収まって行ったが、出血の原因は痛みにより血圧が急激に上昇した為であった。痛み止めの定番と言えば、ロキソニンやボルタレン座薬であるが、腎機能が低下している私にはそれを使えない為、それに代わる痛み止めを何種類か試したが結局どれも役立たず、最後の手段として「モルヒネ」の投与となった。
 まさか此処で「モルヒネ」のお世話になるとは想像だにしていなかったが、さすが「麻薬」だけの事はあり、その効き目は抜群で、それまでの痛みが嘘の様に跡形もなく消えて行った。然し、内科の担当医はそのモルヒネを使うにあたり、かなり慎重で中々首を縦に振ってはくれなかった。
 痛みが去ってしまうと抜歯後の回復も早く、体調を見て抜糸した後に退院となる筈だったが、結局抜糸は次回外来時に行う事となり、東京に二度目の大雪が降り始めた14日の午前中に退院となった。心不全から開放され、息切れもなく足取り軽くいつもの道を闊歩し、途中好きな「神田川」で記念撮影をして普通に歩く事の出来る有り難さを満喫しながらそぼ降る雪の中を家路へと急いだ。
 結局の所、今年も例年通りの入院で始まってしまったが、それでも生きている喜びを噛み締めて、どんな状況下にあっても希望と笑顔は絶やさず前向きで歩んで行きたいと思った。多くの善意ある人たちに背中を押されている自分に気付けば、やはり自分も誰かの背中を押したりさすったりして生きているんだとつくづく思う。
 今回のブログ休止で訪問者の皆さまには大変ご心配をお掛けした事お詫びするとともに、急遽お見舞いに駆け付けて下さった、女流詩人のKさん、後輩の村木剛、そして「茜の海」著者の高林夕子さん、この場を借りてお礼申し上げます。ありがとうございました。

テーマ: 病気と付き合いながらの生活

ジャンル: 心と身体

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猫の手も借りたい闘病記録。 

猫の手

 新年を故郷や海外で迎える人たちの帰省ラッシュがピークを迎えている。それぞれの想いを抱えた2013年がもう直ぐ終を告げる。そこに待ち受ける新しい産声を聞く為に、その声に新たな希望を託して人はまた未来に向けて歩き始める。
 今年もいよいよ数日を残すのみとなりました。街角ではカウントダウンの鐘が鳴り響いている事でしょう。年賀状の投函も済ませ、後は除夜の鐘を聞くのみと言った所ではないでしょうか。私の場合、詩は兎も角として小説などは自分を追い込んでギリギリになるまで書かない性格なのですが、それが持病にまで影響し、心不全を発症しているのにギリギリまで我慢してしまうんですね。
 もう限界となった時点で漸く救急車を呼ぶ…、搬送先の病院で看護師に「もっと早く来なければ駄目ですよ」といつも怒られてばかり、まるで子どものようです。
 2013年を振り返ると、やはり闘病の一年でした。病気が治る訳ではないので闘病自体死ぬまで続くのですが、今年は特別でした。正月早々心原性脳梗塞で倒れた時の事がトラウマになっております。深夜1時、部屋の灯りを消す為にベッドから起き上がろうとした所、身体が全く動かない…、初めての経験で、それは言葉に出来ないほどの恐怖でした。
 自分の身体に何が起こっているのかその時はまだ理解しておらず、動かない手足を何とかしようともがいている内にベッドの下に転落。その時かなり強く打った為、今でもその打撲痕が消えずに残っています。
 右半身の感覚が全くないため痛みは感じませんでしたが、骨折しなかったのが不思議な位で、右腕がどんな状態になっていたのか想像すると恐ろしくなります。ベッドの下で一時間ほどもがいていたでしょうか…、兎に角助けを呼ばなければと思い、自由に動く左腕のみを頼りにベッドへと戻りました。そして左手で携帯を握り締めたまではよかったものの、右腕を必死に携帯の所に持って行こうとするのですが、全く力が入らず成す術もないまま携帯を見詰めておりました。
 「万事休す」人生の終わり、つまり「死」を悟った瞬間でした。声も出ず助けも呼べず、孤独と絶望に打ちひしがれた正月の深夜…。流れ出るのは鼻水と涙とだらしなく開いた口元からの唾液のみ。然し、そうやって地獄の淵に佇む私に向かって、またしても幸運の女神が微笑んだのです。
 入院から10日後には脳梗塞の後遺症も全くなく、奇跡の復活を遂げた訳です。この様な「九死に一生」体験をすると、その年は運が悪い大凶と思ったりしますが、結果を見ると「大吉」ではないかと考え直し前向きの姿勢に修正出来たりするものです。
 脳梗塞の後、立て続けに起こった「心不全」によりまたしても救急搬送され、今年前半は病院生活に費やされてしまった訳ですが、病気を活力の源と置き換える事が出来れば、闘病生活の中に希望の光を見出す事が出来るのではないでしょうか。
 絶望からスタートした2013年も終わり、何はともあれ生きている事の喜びを噛み締めて、来年は希望からのスタートにしたいものと思っております。この一年、私のブログに訪問して頂いた皆さま方全ての人に幸多き年となるよう心からお祈りし感謝致します。
 今年一年ありがとうございました。そしてまた来年もどうぞよろしくお願い致します。

管理人:神戸俊樹

テーマ: 人生を豊かに生きる

ジャンル: 心と身体

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腎不全定食は如何ですか? 

腎臓食

 わたしは入院する毎に病院で出された食事をカメラに収めておく。記念撮影などと悠長な事は言ってられないが、朝、昼、夕と毎日のメニューを撮影し、退院してからの食事管理に役立てようと思っているからだ。
 心不全入院した場合の治療方法はほぼ決まっているものの、担当医によってその治療方針は若干異なって来る。わたしのように年に何度も入院を繰り返す患者の場合は、前回入院時のカルテを参考にして更に一歩踏み込んだ治療方法を模索する。
 基本的には点滴を打ちながらの絶食がお決まりコースで、心臓への負担を出来るだけ軽くする為の処置。これに加えてラシックス(利尿剤)を投与。これは増え過ぎた体重を減らし身体の浮腫を取る為であるが、余り大量に使うと腎臓に負担を掛けてしまうので、血液検査をしながら慎重に行われる。
 そして最も重要なポイントが食事療法。心臓食の場合、一日の摂取カロリーは1600~1800Kcal迄とし、塩分は一日6g、それに加えて水分もかなり制限があり、入院初日~一週間は一日500ミリリットルと非常に厳しいものになる。
 絶対安静と絶食、そして食事療法によって一週間も経てば体重は4~5キロ落ち、心臓もかなり楽になり、呼吸もスムーズに出来るようになるから身体の状態によっては酸素吸入も外せるようになる。
 絶食をする理由は心臓への負荷を減らす為であるが、食べ物が胃に入ると身体の血液が一気に胃に集中しその為に心臓が普段の倍近い働きをしなくてはならない。食事=心臓への負担が増える…と言う事になる訳で、更に胃が膨張すると心臓を圧迫して呼吸困難になってしまうため、食事の量も出来る限り抑えなくてはならない。
 脳梗塞で右半身が完全麻痺し、救急搬送された1月、その時の食事は「心臓食1800Kcalであった。心不全を併発している訳ではなかったので、脳梗塞の状態(これと言った治療はなかった)が、安定した事を確認(後遺症は全くなし)し、10日ほどで退院出来たのだが、その一ヶ月後に心不全救急搬送
 心不全を起こした原因が前回入院時の担当医が新たな心不全の薬を経過もそこそこに投与した為、その副作用によるものであった。その問題の薬(メインテート)を中止して、脳梗塞以前に服用していた薬に一旦戻し、いつもの絶食と食事療法で体重を戻した後に約一ヶ月の入院期間を経て退院となったが、食事内容に若干の変化があった。前回1800Kcalだったものが、1600へと僅かに減量されていた。
 そしてその約2ヶ月後の4月末にまたもや心不全救急搬送となる。3回目の入院で大きく変化したのが食事内容であった。食事が出された時、何かの間違いではないかと思い、看護師に思わず詰め寄ってしまったのだが、それは担当医の指示によるものであった。
 腎不全食…と書かれた紙を眼にし、ため息を付いてしまった。心臓食でもかなり厳しい制限があるにも関わらず、今度は更にその上を行く腎臓食である。確かに腎臓も健康な人と比べればかなり機能も落ちて弱って来てはいるが、とうとう食事にまでそれが及んでしまったかとがっくり肩を落とす羽目になってしまった。
 腎臓食は12歳の時に入院した藤枝の志太病院小児科病棟以来であった。摂取カロリー1500、最も厄介なのは蛋白質の厳しい制限である。一日40グラムと言われて、それ以来買い物する度にタンパク質の含有量を気にしている。
 独身男性が自宅で病院食とほぼ同じメニューを作るのは極めて難しい。撮影した病院食を参考にしながら出来るだけそれに近い物をと思っているが、中々思い通りには行かない。つい「腎不全定食がコンビニで売ってないかな(宅配は高い)…」と愚痴を零したくなるのである。
 退院する時に冗談で「病院食の宅配とかやってくれると助かるのにねぇ…」と、栄養士に話を振ってみたが、「採算が合わないよね」とあっけない幕切れだった。
 さて、今回、体重増加による心不全の症状が出た為、ブログを暫く休止し、皆さ様方には大変ご心配をお掛けし申し訳なく思っておりますが、入院時の環境を自宅で再現出来る筈もなく、無謀とも思える自力療法で増えてしまった体重を約5キロ落とし短期間でブログ復活となった訳でありますが、医師の指示に逆らうようなわたしの真似は皆さん絶対にしないで下さい。
 自力で回復出来たその背景には長年の闘病生活の中で培って来た、これは主治医にも分からない病気である本人にしか理解出来ない闘病マニュアルがあるからであり、そのノウハウは先進医療や優れた薬剤をも凌ぐ生きる為のバイブルとも言えますが、難点は自分にしか通用しないと言う事です。が、然し、そのエネルギーの源は、人との触れ合いの中で育まれ、成長して行く事だろうと思います。
 所詮、人間は一人では生きられない、ならばお互いに助け合って笑顔を絶やさず前向きに明日を信じて歩いて行こうではありませんか。これからもビーチサイドの人魚姫と神戸俊樹をよろしくお願い致します。

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CCUから愛を込めて。 

退院

 今年三度目の救急搬送。救急車を呼ぶ事にもう躊躇いはなかった。1月5日脳梗塞、2月5日心不全、そして4月28日またもや心不全。奇しくもこの日は25年前に僧帽弁置換術を施行した日でもあった。
 GWのさ中でもあり、到着した三井記念病院の救急センターはいつもより運び込まれる患者が少なく閑散としていた。通常であれば2,3人の若い研修医が待ち受けている筈だったが、その研修医たちはは18時で早々に切り上げてしまったようだ。
 急患の連絡を聞き駆け付けた当直の医師がわたしの顔を見るなり話掛けて来た。「あら、神戸さんお久しぶりね、わたしの事覚えてる?」「覚えてますよー、忘れる筈がないです」とお互いに笑顔で挨拶代わりの会話を交わした。
 4年前になるだろうか…、やはり同じく救急外来に心不全で駆け込んだ時の担当医がこのY女医であった。いつものように左腕にラインを取りながら彼女は呟いた。
「研修医たちは?」看護師の一人が応える「18時で帰りましたよ」「あっそう…GWだからね」全て一人で対応しなければならない事に苛立ちを見せながら、右手首の動脈から採血を始める。
 救急隊員から症状の報告を聞きつつ、手馴れた手付きで電子カルテの内容をチェックしていた。血液検査の結果が届くと、今の状態を詳しく話してくれた。「ワーファリンが過剰に効きすぎて、いつ何処から出血してもおかしくないです…」この言葉の意味を瞬時にわたしは重く受け止めた。脳裏を過ぎったのは「脳内出血」だった。
 本来であれば前回と同様にバルーンを尿道に挿入するところであるが、管が尿道を傷付けて出血する可能性が高い事から今回は見合わせる事となったが、わたしとしてはその辛さを知っていたのでほっと胸をなで下ろした。
 然し、今回このタイミングでの緊急入院も脳梗塞の時と同様に、何処か神懸かり的な部分を含んでいるような気がしてならない。つまり、担当医が言った「どこから出血してもおかしくない状態」と言うのは、脳内出血のリスクがかなり高まっていた事を示唆してるからだ。
 19歳の時、静岡市立病院で弁形成術を受けたが、その時に不思議な話を聞いて驚いた事がある。わたしの父はその一年前に亡くなっていたのだが、わたしが手術のため入院した時に、親戚の伯母の枕元に父が現れ、伯母にこう告げたと言う「俊樹が心臓の手術で入院しているから見舞いに行ってやってくれ…」。それは一週間続いたと言う。
 伯母は余りにもしつこいので父に向かってこう言った「あんまりしつこいと行ってやらないよ」。次の日から父の姿は見えなくなったと言う。
 わたしのところには一度も現れる事はなかった父であるが、この広い空の何処かで今でも見守ってくれているような気がしてならない。
 CCUに二日、循環器専門病棟に1日、そして今回は4年前にお世話になった17階の一般病棟へ。迎えてくれた看護師さんたち、循環器病棟でもそうであったが笑顔で話し掛けて来てくれた。
「神戸さん以前にも入院してますよね…」「はい、また戻って来ました」新人ナース以外は殆ど顔見知りなので会話もスムーズである。
 さて、医療にある程度詳しい人であれば、この胸部レントゲン写真を見てその異常な心臓を容易く見抜く事が出来ると思う。右側が5月9日、左側が28日の入院時に撮影したもの。心臓が大きく肥大している事が良くお分かり頂けるだろうか。
「神戸さんの心臓は至る所が悪くて血液の逆流も起こりかなり疲弊しています」「今回は利尿剤を増やさず食事療法と新たな薬(メインテート)の投与でここまで回復しました」。確かにそうだった。外来ではワーファリンの効果を下げる為に「ビタミンK」を点滴したほどであるが、前回の時のように「ワソラン」「ラシックス」と言った心不全治療に於ける定番の薬は一切使用しなかった。
 ヘパリンの点滴はワーファリンの効果が安定するまで続いたが、それも早めに終わった。入院二日目から食事が出たのであるが、その内容に戸惑ってしまった。それもその筈でいつもの心臓食ではなく「腎不全食」だったからである。
 心臓食よりも更に制限の厳しい腎不全食は、カロリー1600、塩分6グラム、それに加えて蛋白制限がある。病院で出された食事は蛋白40グラム。
 中学1年の時に食べた腎臓食以来であり、最初は何かの間違いかと思ったほどであるが、心臓と腎臓は密接な関係にあり、長い期間に渡り利尿剤のラシックスを服用して来た為に腎臓にかなり負担を掛けてしまっている。
 腎臓は一度悪くなってしまうともう後戻り出来ないほどデリケートな臓器である。心臓は以外とタフであり人間の臓器の中では最も丈夫に出来ている。腎臓をこれ異常悪化させない為に必要な事は負担をなるべく減らす事を心がけるしかないが、それは食事内容に大きく左右されるため、重要なポイントである。
 病気の為にわたしはこれまで多くのものを諦めて来た。然しその諦めた分それ以上のものを手に入れる事が出来たのも事実である。健康は手に入らないが健康である事の素晴らしさを知る事が出来たし、病気を通して様々な人たちと出会い触れ合う事も出来た。
 心臓病になっていなければ詩集を出版する事もなかったし、詩を書く事もしていなかっただろう。失ったものは確かに途方もなく大きいけれども、わたしは希望の光を常に絶やさず前を向いて歩く事を病気から教えて貰った気がしている。
 常に感謝の気持ちを忘れず直向きに生きて行こうと思っている。皆さん、これからもこのわたしをよろしくお願い致します。

テーマ: 健康で元気に暮らすために

ジャンル: 心と身体

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命の更新記録。 

病室

 脳梗塞で倒れたあの夜の事、孤独と絶望感に打ちひしがれ、完全に麻痺した身体からは涙の一滴すら流れ落ちなかったが、心は無念の涙で溢れ返っていた。
 ベッドから落ちた時に自分の右半身がどのような状態だったか全く想像すら出来ずにいた。紫色に腫れ上がった右腕が骨折しなかったのは奇跡と言えるかも知れない。
 辛うじて自由に動いた左手だけを頼りにベッド上に戻ろうと、必死にもがいていた。声を上げる事も出来ず、半開きの口からたらーりとだらしなく唾液だけが床に糸を引いて流れ落ちた。まるでそれは助けを呼べない苦悶と悲痛の涙だったのかも知れない。
 次の朝を迎える事が出来るのか、そんな事すら考えも及ばなかったが、身動きが取れない身体の奥底で「このまま死ぬ訳にはいかない」とくちびるを噛み締めていた。
 そして奇跡的な復活を遂げたあの日から丁度一ヶ月が経った2月5日の事だった。心不全の症状は数日前から現れていた。
 短期間で急激に体重が4キロ増え、僅か数十段の駅の階段を昇る事が苦痛でならなかった。階段を昇りきったその場所で、もう一歩も動けずに呼吸が今にも止まってしまうのではと思えるほど苦しかった。
 手足はおろか身体全体がダルマのように浮腫み、それは肺にまで及んでいたから起座呼吸をしても一向に楽にはならず食事も受付なくなっていた。
 もっと早く病院へ行くべきであったが、父親ゆずりの下らないプライドが邪魔をし、限界ギリギリになって友人に諭されながら三井記念病院に電話を入れたのが夜の8時頃だった。タクシーで行くと救急外来の看護師に伝え、車の手配をしている矢先に病院から折り返し電話が入った。
 看護師からきっぱりと「救急車を呼んで下さい」と告げられる。わたしは過去に心不全で何度も緊急入院しているが、救急車を呼んだ事はなかった。おそらく脳梗塞の事もあり病院がその辺りも配慮に入れての判断だったのだろう。
 退院後一ヶ月もしない内に病院へ逆戻りとなってしまった訳で、何ともやりきれない思いで胸が一杯であった。
 救急外来では3人の若い男性医師たちが電子カルテを見つつ何やら呟いていた。「ラニラピッドを止めてメインテートに切り替えた…ふむふむ」「ラシックス40ミリを20に減らしたんだね…」「この辺が心不全の要因かな…」。
 確かに薬が変わった事も心不全を招いた要因の一つではあるが、それだけではない。脳梗塞以前と後では身体に大きな変化があったのは事実であり、そしてまた自分の自己管理の拙さも手伝って複合的に心不全を発症したのである。
 不安定なバイタルサインが出ている事から、いつも通りに左腕からラインを取りラシックスとワソランの点滴が始まった。安静時でも120を軽く超える頻脈と、そしてサチュレーションが95を下回っていた事もあり直ぐさま3リットルの酸素吸入が始まる。
 高濃度の新鮮な酸素を貰って身体が喜んだのかその酸素がとても美味しく感じ、生きる事の意味が殊更身に染みた瞬間でもあった。
 更にこれは自分でも予想外であったが、バルーンを尿道に挿入。そして紙オムツまで履く事になってしまったが、今回の心不全がかなりの重症である事を物語っていた。
 絶対安静、ベッドから一歩たりとも降りる事が出来ないのである。外来で応急処置を済ませると運ばれた所は6階にあるCICU(冠疾患集中治療センター)であった。その場所は重症患者を受け入れる施設である。
 物々しい医療機器と慌ただしく動き回る看護師たち。そして耳に響いて来る独特の機械音が生きている証の様に聞こえて来た。
 「○○さーん、聞こえますかー?」「此処が何処だかわかりますかー」若い看護師たちの張りのある声がとても健康的に思えたが、呼び掛けられた患者からの反応は全く聞こえて来なかった。そしてまた入院慣れしたこの身体が病室のベッドに直ぐ馴染んでしまう事も哀しかった。
 次の朝の午前中にある程度症状が安定した事から、そこを出て同じ階にある「循環器専門病棟」に移されたが依然として酸素も点滴もそのままで移動時は車椅子であった。
 一週間ほどその専門病棟で加療し、2月14日に12階の一般病棟に移ったのだが、なんと脳梗塞で入院していた時と同じ病室であり、つい最近までお世話になった医療スタッフたちがそのまま居たこともあり気恥ずかしさを隠す為「戻って来ちゃいまいしたー」と照れ笑いを浮かべて挨拶をした。
 身体の浮腫は眼に見えるほどの早さで消えて行ったが、肺に溜まった水がいつまでも抜けずに残り、そして原因不明の微熱も続いていた事から入院は更に長引いたが、2月24日に退院の許可が降りた。「退院おめでとう」この言葉をわたしは過去に何度も聞いて来たが、本音を正直に言ってしまえばわたしは退院を心底嬉しいと思った事がない。
 病気が治って退院するのなら手放しで喜ぶ事が出来るのだが、このわたしが抱えている病気は治る事がなく悪化の一途を辿るばかりなのである。
 完全看護のバリアで守られた特別室から厳しい現実が待ち受ける世界に放り出される訳で、自己管理を僅かでも怠ればまた病室に逆戻りという悪循環の繰り返しなのである。
 然しながらこの自分が置かれた現実に希望を失っている訳ではない。空気を吸い、口が聞け、両手両足が動き自分の意思で歩く事が出来る何でもない当たり前な事が如何に幸せかをこの瞬間にも感じ取っている。
 もちろん脳梗塞の再発或いは脳内出血など様々なリスクを抱えてはいるが、右半身麻痺と言う過酷な運命を乗り越えて奇跡的に生き延びて来たのだからこれを新しく与えられた命として受け入れ「死」ではなく「生」をスタンスとして残された時間を全うして見せると自分に言い聞かせた訳である。


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年末年始は赤信号…。 

赤信号


 新年のご挨拶が一歩出遅れてしまいましたが、皆様、改めて新年明けましておめでとうございます。皆様にとっての2012年はどんな一年だったでしょうか?
 昨年末に行われた衆議院選挙では、民意を裏切り続けた民主党が大きく後退し、それに取って代わった自民党の大躍進、そして安倍政権の誕生となりその支持率は61%だとか。然し肝心の投票率は依然として低く国民の半分は政治に諦念すら抱いている状況。
 被災地、福島の復興は亀の歩みの如くに鈍足であり、将来への不安を抱えたまま年を越した人々も多くいたのではないだろうか。
 さて、わたし自身にとっては出来すぎと言っても過言ではないほどの良い一年であり、その中でもやはり一年を通して入院する事もなく、無事に乗り切れた事が新たな年に向けて大きな励みと自信にも繋がって行くと思っています。
 然しながら何事も終わって見なければ分からないと言うように、思わぬ所に大きな落とし穴が待ち受けているもの。
 年の瀬が押し迫った29日、新潟から冬休みを利用して上京して来る息子を池袋まで迎えに行く準備を整えている矢先に届いたメールは「中止」の二文字…。なんとドタキャンであった。
 明確な中止の理由も解らぬまま、自分の立てていた年末年始の予定が白紙になってしまい、急遽、故郷の静岡へ帰省する為の準備へと予定を大きく変更し友人や静岡の息子に連絡を入れ、会う算段を整え新幹線の時刻を確認していたところ、午後9時を回った辺りから妙に息切れを感じた為、体重を測って見るとなんと2~3キロ増え更に足が浮腫んでおり、指で押すとかなり凹みが出来てそれが戻って来てくれない。
 心不全である。重い心臓疾患を患っているわたしにとって、この心不全は避けて通れない最大の障壁であるが、年に幾度となく入退院を繰り返して来たこともありさほど狼狽える事でもないのだが、帰省目前でのこの症状には流石に落胆の色を隠せなかった。
 心不全である事を友人と息子に伝え、30日の朝になっても症状が消えていなかったら帰省は取りやめる事とした。
 一縷の望みを託しつつ、30日の朝を迎える。東京は夜半から降り始めた雨で、凍りつく程の外気が狭い部屋にまで流れ込んでいた。
 昨夜は酷い息切れと動悸で殆ど眠れず、仰向けもしくは横になって寝る姿勢は心臓に圧迫感を与え呼吸困難になる為、心不全の時に限り「起座呼吸」の状態でベッドに入ったので、尚更眠る事が出来なかった。
 足の浮腫を確認するまでもなく状態が良くなっていない事は浅い呼吸で直ぐに解った。皆が口を揃えて病院へ直ぐ行くようにと促してくれる。それは自分が一番よく解っているのだが、入院だけはどうしても避けたかった。
 結局、年末年始を一人で(愛猫タラと)過ごす事になったが、それ自体25年振り位だろうか。30代の頃、蒲田に住んでいた時に年越し蕎麦ならぬ年越しカレーを作って一人で食べた時の事を思い出していた。
 入院すれば絶食となる為、それに習って30日と大晦日は食事を絶った。緊急用にと主治医から言われていた通り、頓服用のラシックス(利尿剤)の効果もあり、足の浮腫は殆ど消えていた。
 元日の朝、電話のコール音で目が覚めた。おめでたい元旦に電話を寄越すのは誰だ?と思いきや、なんと一年振りに聞く千葉に住んでいる友人Tさんの声だった。
 わたしからの年賀状が届いたから早速電話を掛けて来たのだろうと察しは付いたが、受話器の向こうの声は何処か沈んでいた。「ひさしぶりだねぇ、年賀状届いたんでしょ?」「うん、届いたよ、だけど喪中なんだ…」「えっ?…喪中の葉書届かなっかったけど、誰が亡くなったの?」「誰だと思う?…」
 余りにも唐突な思いもよらぬ会話のやり取りで、わたしは言葉を失い掛けていた。「弟が死んだんだよ…」「ええ?あのS君が?…」「そうなんだよ、脳溢血でね…」。信じられなかった。Tさん兄弟は、わたしが上京した25歳の頃に知り合い東京で初めて出来た友人であった。
 金も殆ど無く夕食にさえ事欠いていたわたしにTさんは一食100円で食事を提供してくれたが、タダでもよかったのではとあの頃の事を懐かしく笑いながら振り返った。
 S君は20年ほど前に結婚し娘を一人もうけている。だから幸せな家庭を築いているものとばかり思っていたが、数年前に離婚し自宅マンションで独り暮らしを続けていたようだ。
 血圧が高いにも関わらず健康に対し自信過剰になっていた事もあり、それが祟って結果的に病魔の発見を遅らせる事となり孤独死に至ってしまった。
 このS君の話を聞いた時、ひとごとではないと自分の置かれている状況を痛切に感じてしまった。健康と愛情は失ってみてその有り難さに初めて気付かされるものである。
 正月早々暗い話題になってしまい申し訳なく思うが、2日は親友Aの命日でもあり、わたし的にはAが突然死してからというもの、笑顔で正月を迎えた試しがない。
 親友だったAやNの墓参りはおろか、母親の骨が何処の寺にあるかさえいまだに知らないわたしが、こうやって生ながらえているのにもきっと理由があるに違いない。
 命はみな何らかの使命を持ってこの世に誕生する訳であるから、その使命を全うするまでは目が潰れようと足が腐ってしまおうと生き続けてみせると誓った元日の朝であった。
 昨年5月末にFC2で始めたブログであり新参者ではありますが、これまで応援して下さった皆さまへの感謝の気持ちを込めて、今年もビーチサイドの人魚姫を温かく見守って頂けると嬉しく思います。そして皆さまの一年も素晴しい年でありますように心からお祈り申し上げます。

神戸 俊樹

テーマ: 病気と付き合いながらの生活

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病院食は父親の味(父の命日を偲んで)。 

病院食

 わたしが初めて入院を経験したのは、小学6年の時だった。心臓病の発見は小学4年の時であったから、約2年間は医者の目に触れることはなかった。
 そこには、劣悪な家庭環境が背景にあり、学校から専門医の診察を受けるよう注意を促されていたにも関わらず、父親はみて見ぬ振りを決め込んでいたのである。
 労働意欲の全くない父親は、明るい内から酒を飲み顔が夕日に染まる頃には、赤い顔を更に赤くして酔いどれていた。
 金も健康保険証もない状況下では、どんなに病状が進行しても医者に掛かる余裕などなかったのである。
 そんな環境では、まともな食生活が送れる筈もなく、一日三食の日は年に数えるほどしかなかった。栄養不足のわたしの体は、病気も手伝って見る見るうちにやせ細って行った。
 「ウー、ウーッ…」
 けたたましいサイレンを響かせながら、夜の闇を走る救急車の中に、顔を血だらけにしたわたしと酒臭い父の姿があった。
 藤枝では一番大きく、設備の整った「藤枝市立志太総合病院」に向かって白い車は走った。到着した救急車を待ち受けていたのは、数人の医療スタッフとストレッチャーだった。
 「何処へ連れて行くのだろう…」
 不安な表情を浮かべるわたしに父が上から語りかけた。
 「とし坊、もう大丈夫だ…」
 酔いが少し覚めた父の口調は優しく温かだった。子どもにとって親の一言がどれだけ大切で救われることか。
 わたしは涙を溜めながら「うん」と頷いた。小児科病棟の個室に運び込まれると、その後から慌ただしく看護婦たちが出入りした。
 扉には面会謝絶の札が掛かり、病状の重さを物語っていた。点滴がその夜から始まり、三週間近く続いた。
 個室にいる間は父が時々様子を見に来たが、泊まって行ったのは入院初日の夜だけだった。完全看護とは言え、まだ11歳の子どもである。1人で個室にいるのは淋し過ぎた。ただ、その淋しさを紛らわしてくれたのが朝昼晩の病院食であった。
 一日三回、しかも毎回メニューが替わる食事は、子どもの世界を一変させるほど効果があったし、家にいたらこんな風に、毎日ご馳走は食べられない。育ち盛りの子どもにとっては、空腹ほど残酷で耐え難いものはなかった。
 その日の夕食は、刺身と肉じゃがにワカメの味噌汁だった。食事中に父が紅い顔をしてやって来た。病棟に酒の臭いが広がるのはとても恥ずかしかった。ガツガツと餌にありついた犬のように食べるわたしを見て、父が言った。
 「みっともないから全部食べずに、少しは残せ…」
 何の苦労もなく子ども時代を過ごした父は人一倍プライドだけは高かった。父の馬鹿げた言葉だったが、そんな言葉に耳を貸すこともなく、わたしは綺麗に夕食を平らげた。
そして味噌汁を一気に飲み干した。その後で父が言った。
 「どうだ、父ちゃんが作った味噌汁とどっちが美味い?」
 「そりゃあ父ちゃんの方が美味いよ」
 「父ちゃんの味噌汁は世界一だもん」
 「そうかー、退院したら毎日作ってやるからな」
 嘘でも嬉しい父の言葉が、病院食の器の中で優しくいつまでも木霊していた。

テーマ: 病気と付き合いながらの生活

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余命一年からの復活。 

復活

 1989年4月28日、わたしは三井記念病院の手術室にいた。その日の朝の記憶は鮮明に残っている。手術前日の夜、看護婦が眠れないからと睡眠剤を置いていったが、わたしはそれを使わず熟睡した。
 余命1年といっても、癌などの宣告とは多少違う。この心臓の状態だと1年もたないと言う意味で、それは否応なしに手術を受けなければ助からないという事だった。  
 19歳の時に一度手術は受けていたが完治した訳ではなかったので、何れ再手術という、その日が来ることは分かっていた。
 当時の三井記念病院はまるで戦場の最前線のようであった。6人部屋にはベッドが8個、とにかく予約待ちの患者が溢れていたのであるが、その頃、当病院にはバチスタ手術で有名な「神の手」と呼ばれる心臓外科の名医「須磨久善」先生がおり、その腕を頼って日本全国から患者が殺到していたからだ。
 その日手術を受けた患者は、わたしを含め8人で症状の重い患者から手術を受けることになっており、わたしはそのトップだった。

 浣腸で腹の中を空っぽにする。そして真っ白な手術着一枚に着替える。軽い麻酔剤を一本打つ。意識ははっきりしており、その注射は無意味だった。
 ストレッチャーが迎えに来る。自分の力でベッドから乗り換える。部屋を出て行く時、「頑張れ」と声がかかる。自分もそれに応えるように手を振った。手術室は7階だった。
 扉が開くと同時に看護婦の声「かんべさん、手術室に入りますよ」声は出なかったが頷いたと思う。「かんべさん、手術台に移りますよ」遠のく記憶の彼方から優しい女性の声が木霊していた。薄っすらと目を開けると眼鏡を掛けたドクター3人の顔が見えた。
 麻酔医が「全身麻酔します」と言ったのが最後だった。手術は9時間に及ぶ大手術だった。時間が全く分からない、朝か昼か夜なのか?とにかく手術が成功したのだ。
 成功率は85%、ただし手術中に心筋梗塞を起こし一時危なかったらしい。そして空気が脳に流れた事も分かった。
 ICUからCCUに移りはしたが、どうも息が苦しくてよく眠れない。レントゲンを撮ると片方の肺が完全に潰れていた。
 次の日、背中に太い注射器を指し、肺に溜まった血を抜いた。牛乳瓶8本分の水分が右の肺に溜まっていたのだった。
 一気に呼吸が楽になり手術成功を実感した。あれから23年が過ぎ、今年24年目に入った。これほど生きられるとは思っていなかった。
 機械と薬に頼る毎日だが、わたしを支えてくれる多くの人たちに感謝しながら、これからも生きて行きたいと思う。

テーマ: 薬・医者・病院等

ジャンル: 心と身体

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