ビーチサイドの人魚姫

うつ病回復のきっかけとなった詩集出版、うつ病、不登校、いじめ、引きこもり、虐待などを経験した著者が 迷える人達に心のメッセージを贈る、言葉のかけらを拾い集めてください。

海岸通り カバー(イルカバージョン)再編集版。


前回、吉田拓郎の「夏休み」をアップしたところ意外と好評だったので、今回は「海岸通り」をアップ。
この曲は1974年にヒットした曲なので、フォーク世代の人にとっては郷愁を誘うこと受けあい。
オリジナルは「かぐや姫」のメンバーだった伊勢正三であるが、イルカ(本名:かんべとしえ)が見事にカバーし、名曲として蘇えった。
原曲を殆ど聴いていないので、まともに練習もせずぶっつけ本番で演奏してみたが、テイク2程度ですんなり録音出来た。
自分なりにアレンジしているので、完全コピーとはいかなかったが、雰囲気は出ていると思う。
是非、皆さんも一緒に歌ってみて下さい。
ギター/ヴォーカル:神戸俊樹
ギター:三好清史

※前回アップ時に動画の部分が忙しなく聴きづらいとのご意見があった為、動画を再編集して作り直しました。
ブラウザによっては動画が見られない場合がございます。そんな方はこちらをクリック→海岸通り

初掲載2012年9月21日01時09分28秒。

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腎不全定食は如何ですか?

腎臓食

 わたしは入院する毎に病院で出された食事をカメラに収めておく。記念撮影などと悠長な事は言ってられないが、朝、昼、夕と毎日のメニューを撮影し、退院してからの食事管理に役立てようと思っているからだ。
 心不全入院した場合の治療方法はほぼ決まっているものの、担当医によってその治療方針は若干異なって来る。わたしのように年に何度も入院を繰り返す患者の場合は、前回入院時のカルテを参考にして更に一歩踏み込んだ治療方法を模索する。
 基本的には点滴を打ちながらの絶食がお決まりコースで、心臓への負担を出来るだけ軽くする為の処置。これに加えてラシックス(利尿剤)を投与。これは増え過ぎた体重を減らし身体の浮腫を取る為であるが、余り大量に使うと腎臓に負担を掛けてしまうので、血液検査をしながら慎重に行われる。
 そして最も重要なポイントが食事療法。心臓食の場合、一日の摂取カロリーは1600~1800Kcal迄とし、塩分は一日6g、それに加えて水分もかなり制限があり、入院初日~一週間は一日500ミリリットルと非常に厳しいものになる。
 絶対安静と絶食、そして食事療法によって一週間も経てば体重は4~5キロ落ち、心臓もかなり楽になり、呼吸もスムーズに出来るようになるから身体の状態によっては酸素吸入も外せるようになる。
 絶食をする理由は心臓への負荷を減らす為であるが、食べ物が胃に入ると身体の血液が一気に胃に集中しその為に心臓が普段の倍近い働きをしなくてはならない。食事=心臓への負担が増える…と言う事になる訳で、更に胃が膨張すると心臓を圧迫して呼吸困難になってしまうため、食事の量も出来る限り抑えなくてはならない。
 脳梗塞で右半身が完全麻痺し、救急搬送された1月、その時の食事は「心臓食1800Kcalであった。心不全を併発している訳ではなかったので、脳梗塞の状態(これと言った治療はなかった)が、安定した事を確認(後遺症は全くなし)し、10日ほどで退院出来たのだが、その一ヶ月後に心不全救急搬送
 心不全を起こした原因が前回入院時の担当医が新たな心不全の薬を経過もそこそこに投与した為、その副作用によるものであった。その問題の薬(メインテート)を中止して、脳梗塞以前に服用していた薬に一旦戻し、いつもの絶食と食事療法で体重を戻した後に約一ヶ月の入院期間を経て退院となったが、食事内容に若干の変化があった。前回1800Kcalだったものが、1600へと僅かに減量されていた。
 そしてその約2ヶ月後の4月末にまたもや心不全救急搬送となる。3回目の入院で大きく変化したのが食事内容であった。食事が出された時、何かの間違いではないかと思い、看護師に思わず詰め寄ってしまったのだが、それは担当医の指示によるものであった。
 腎不全食…と書かれた紙を眼にし、ため息を付いてしまった。心臓食でもかなり厳しい制限があるにも関わらず、今度は更にその上を行く腎臓食である。確かに腎臓も健康な人と比べればかなり機能も落ちて弱って来てはいるが、とうとう食事にまでそれが及んでしまったかとがっくり肩を落とす羽目になってしまった。
 腎臓食は12歳の時に入院した藤枝の志太病院小児科病棟以来であった。摂取カロリー1500、最も厄介なのは蛋白質の厳しい制限である。一日40グラムと言われて、それ以来買い物する度にタンパク質の含有量を気にしている。
 独身男性が自宅で病院食とほぼ同じメニューを作るのは極めて難しい。撮影した病院食を参考にしながら出来るだけそれに近い物をと思っているが、中々思い通りには行かない。つい「腎不全定食がコンビニで売ってないかな(宅配は高い)…」と愚痴を零したくなるのである。
 退院する時に冗談で「病院食の宅配とかやってくれると助かるのにねぇ…」と、栄養士に話を振ってみたが、「採算が合わないよね」とあっけない幕切れだった。
 さて、今回、体重増加による心不全の症状が出た為、ブログを暫く休止し、皆さ様方には大変ご心配をお掛けし申し訳なく思っておりますが、入院時の環境を自宅で再現出来る筈もなく、無謀とも思える自力療法で増えてしまった体重を約5キロ落とし短期間でブログ復活となった訳でありますが、医師の指示に逆らうようなわたしの真似は皆さん絶対にしないで下さい。
 自力で回復出来たその背景には長年の闘病生活の中で培って来た、これは主治医にも分からない病気である本人にしか理解出来ない闘病マニュアルがあるからであり、そのノウハウは先進医療や優れた薬剤をも凌ぐ生きる為のバイブルとも言えますが、難点は自分にしか通用しないと言う事です。が、然し、そのエネルギーの源は、人との触れ合いの中で育まれ、成長して行く事だろうと思います。
 所詮、人間は一人では生きられない、ならばお互いに助け合って笑顔を絶やさず前向きに明日を信じて歩いて行こうではありませんか。これからもビーチサイドの人魚姫と神戸俊樹をよろしくお願い致します。

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翼を持った少年(鎮魂歌)追記あり。

翼


空に一番近いこの場所で
少年は想っていた
ボクの見詰める視線の先は
この汚れた地上でなく
何処までも自由が広がる
この青い空だった
この澄み切った空には
ボクが抱える
苦しみや悲しみは
存在しないだろうと
だからこの空の
一部になりたかった
翼を持った少年は
自由を求めて
空高く舞い上がった

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アンパンマンからの贈り物。

アンパンマン

 国民的キャラクターとして子どもから大人まで幅広いファン層に絶大な人気を誇った「アンパンマン」の生みの親である「やなせたかし(本名:柳瀬 嵩 94歳)」さんが、先日の13日に心不全のため亡くなった。
 心不全の症状が出ていた為ブログを暫く休止していたのだが、やなせたかしさんの死因が心不全と言う事であり心なしか穏やかではなかったが、94歳と言う年齢を考えれば大往生ではなかったかと思う。
 日本漫画家協会の理事長を長く努め、漫画家・絵本作家・イラストレーター・歌手・詩人と多くの肩書きを持つやなせさんと初めて出会ったのはわたしが16歳の時だった。
 当時、みつはしちかこさんの「小さな恋のものがたり(チッチとサリー)詩画集」が女子中高生の間でブームとなっており、静岡の書店でも飛ぶように売れていたと記憶している。この頃、わたしはまだ詩を書くと言うまでには至っていなかったが、手紙を書くのが一つの趣味となっていたため、何人かの相手と「文通」をしていた。
 気に入った女性相手にはやはり気の利いた言葉を綴りたいと思っていたので、そのヒントを得る為に何冊かの本に目を通していた。そんな中で一際目立っていたのがサンリオから出版されていた『詩とメルヘン』であった。
 『詩とメルヘン』はやなせたかしさんが編集を担当した文芸雑誌で、一般人が投稿した詩やメルヘンにイラストレーターたちが挿絵をつけるという画期的な雑誌であり人気を博していた。わたしも何冊か購入し文通の手助けとしてお世話になっている。
 やなせたかしさんは上記の肩書き以外にも多彩な経歴があり、作詞・作曲も手掛け多分野で活躍しその才能を発揮している。作詞では『手のひらを太陽に』が代表作品である事は誰もが知るところであるが、「アンパンマン」以前には現在のようにそれほど注目を浴びるには至らなかった。
 アンパンマンが初めて登場したのは1969年であるが、その頃のアンパンマンは普通の人間と同じ姿であり、現在のそれとは大きく異なっていた。子どもだったわたしの記憶に全く残っていないのは、大人向けの絵本「こどもの絵本」に掲載されていたからだと思うが、当時、親だった人たちの記憶には残っているかも知れない。
 アンパンマンがどのような経緯を辿って現在の人気キャラクターになったのか、アンパンマン生誕44年と言う長い過去を紐解いてみるのも良いかも知れないが、忘れてならないのは「空腹の人にパンを届ける」と言う骨子が誕生から現在まで変わる事なく貫かれている事であろう。
 やなせさん自身が語っているように「本当の正義の味方は、戦うより先に、飢える子供にパンを分け与えて助ける人だろう、と。そんなヒーローをつくろうと思った」は、やなせさんの戦争体験が背景になっているものと思われる。
 食料の乏しい戦地での過酷な体験により、人間にとって最も辛いのは「飢え」であると言い切るやなせさんの言葉は「命の継続」が如何に大切かを教えてくれているのではなだろうか。
 遅咲きのヒーロー「アンパンマン」はこれからもわたしたちに愛と勇気を教えてくれるに違いない。
 謹んでやなせたかしさんのご冥福を心よりお祈り申し上げます(合掌)。

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火災を乗り越えて、絶望からの再出発。

蒲田火災

 今から26年前の1987年、わたしは火災により焼け出され住む所もなく路頭に迷っていた。僅か3万円の現金だけを持ち、頼る当てのないまま成り行き任せの上京から6年目の秋を迎えていた。
 当時わたしは、京浜東北線のJR蒲田駅から徒歩7分程度の所にある「コーポ英(はなぶさ)」と言う鉄筋5階建てのマンション301号室に住んでいた。
 大井町にある2万円の木造アパートから一気に7万円のマンションに移り、6年目の暮らしは0からスタートした時と比べれば大きく様変わりし、家財道具や衣装なども増えてそれなりのリッチな独身貴族を味わっていた。
 9月30日のその日も普段と変わらず、少し遅い朝を迎えていた。歩合制の仕事をしていたため、会社員のように時間に縛られる事もなく、請け負った仕事を納期までに収めれば事務所への出社時間などは自由に自分で決める事が出来た。
 朝のシャンプーを終え、軽い朝食を済ませ煙草を一服吸うとそのまま部屋を後にした。水道橋にある事務所に着いたのは昼少し過ぎた頃だった。仕事仲間と雑談を交わしながら時間はゆったりと過ぎて行った…。時計が午後4時に差し掛かろうとしていた時のこと。
 「神戸さん、お友達から電話ですよ」仕事中に電話など掛かって来た事がなかった為、「一体誰だろう…?」と疑問に思いながら電話口に出た。
 その第一声は俄かに信じ難い内容だった。「神戸さんの家が全焼だって…」。電話を掛けて来てくれたのは友人の「多津子ちゃん」だった。「わたしもこれからマンションに向かうから…」。受話器の向こうで嗚咽とも思える悲痛な彼女の声が半分泣き声に変わって行く様子に返す言葉も見失っていた。
 放心状態のまま蒲田方面行きの電車に飛び乗った。自分の身の上に起こった事を受け入れるには時間が余りにも足りなかった。
 火災現場を確認していない事もあり全てが憶測の域を出なかったのは確かであったが、気休めのような言葉は一切浮かんで来ず、頭の中では「全焼」の文字が浮かんでは消えて行くばかりであった。そして容赦なく襲いかかる絶望感と、火災で焼け出され被害に合った人たちへの補償問題が現実となって更にわたしを窮地へと追いやった。
 電車が蒲田駅に着く頃、西に傾いた夕陽で空が赤々と燃えているように見えた。駅を出ると火災がどれほど酷かったかを物語るように焦げ臭い空気が鼻をついた。
 急ぎ足でマンションへと向かう。焦げた臭い以外に街はいつもと変わらぬ佇まいを見せていたが、臭いが徐々に強くなって来るに従い、絶望感と不安は更に高まって行った。
 出火元がわたしの部屋だと友人から聞いていたので、建物全体が跡形も無く焼け落ちてしまっていたらと最悪の想定も頭に入れておいたが、それを考えた所で今の自分にはどうする事も出来ないと、半ば諦めの気持ちでいたのも事実だった。
 陽が落ちて辺りはすっかり暗闇に包まれていた。あの角を曲げればマンションが見える…、胸の鼓動が緊張感で激しく踊り狂っていた。そして自分の目の前に飛び込んで来た光景に思わず我を忘れて胸を撫で下ろした。
 暗がりの中にマンションは朝と同じ佇まいを見せていた。一体この建物の何処で火災があったのか?と首を傾げるほどに静けさを漂わせ白いマンションは立っていた。その中で激しく燃えたであろうと思わせる箇所があった。
 わたしの部屋の窓の所だけが真っ黒く煤けており、明らかに出火元がそこであると主張しているようにも見えた。3階に行くと消防士が二人出迎えてくれた。そして火災の状況と消火作業などについて詳しく説明をしてくれたが、この消防士の対応に思わず涙が溢れて来てしまった。
 消防士が優しかったのは言うまでもないが、火災と言う人生に於いてあってはならない、出来るものなら絶対避けて通りたい災難に不遇にも出会ってしまった時、人はその全てを奪い尽くす炎の前で成すすべもなく泣き崩れるだけだろう。
 消防士は炎を消すのが仕事であるが、火災に遇った本人のダメージを出来る限り最小限に抑えることまでも引き受けている。消火作業にあたっては、水を使わず白い粉の消火剤で鎮火させた事は、家電製品などを出来るだけ現存させて置こうと言う気配りが、絶望の淵にある本人への希望を僅かでも残してあげたいと言う愛情と受け取れたからである。
 部屋の異常にいち早く気付き通報したのは隣人であった。普段全く顔を合わす事もなく挨拶さえ交わした事もなかったが、この時は他人の有り難さを痛感した。火災により部屋の温度が上昇し、おそらく100℃は軽く超えていたものと思われる。
 部屋の分厚い鉄のドアは熱で斜めに歪み、部屋全体は墨を塗りつぶしたように真っ黒く焦げていた。キンチョールの缶が破裂したのか天井の壁に思い切り突き刺さっており、中々取る事が出来なかった。
 その日は友人宅に泊めて貰い、次の日に蒲田警察署に出向いたのだが、そこで待っていた刑事課のデカ長は優しい消防士とは全く逆で、野太い声で思い切り怒られてしまった。
 それも当然の事であるが、出火原因は掴めていなかった。デカ長の話しでは消防車が10台も駆け付け一時騒然となりヘリコプターまで飛んだようだ。
 焼け出され、住む所もなく難民状態になったわたしに日本赤十字社(↑上の画像)から毛布が一枚届いたのは火災から数日経ってからだった。わたしの全財産はその日持っていた現金2万円と着ていた服、そしてアイワのウォークマンだけになってしまった。
 火災に遭って困っている人を援助する機関や手当など行政の取り組みなどを調べてみたが、徒労に終わってしまった。そしてその時に最も力になって支えてくれたのは友人たちだった。普段から付き合いのある仲の良い友人であったが、常に笑顔を絶やさず励まし続けてくれた友人たちには足を向けて眠ることなど出来ないほどお世話になった。
 火災に遭うのはこれで2度目…、上京して一年ほど経った頃、藤枝の実家が全焼している。この時はさほどショックを受けなかったが、幼い頃の思い出が炎とともに消えてしまったと少し感傷的になった程度であった。
 人生に於いて2度も火災に遭う不運…強運と言われ続けて来たわたしの運は不遇の時代によって培われて来たものなのかも知れない。そして蒲田の火災の後、ストレスが原因で持病の心臓病が悪化し、その半年後に余命一年の宣告を受けるに至ったのである。

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プロフィール

俊樹

Author:俊樹
本名/神戸俊樹
静岡県藤枝市出身。
19歳の時に受けた心臓手術を切っ掛けに詩を書き始める。
2005年3月詩集天国の地図を文芸社より出版、全国デビューを果たす。
うつ病回復をきっかけに詩の創作を再開800篇を超える作品が出来上がっている。
長編小説「届かなかった僕の歌」三部作を現在執筆中。
父をモデルとした小説「網走番外地」執筆開始。
東京都在住。
血液型O型/星座/山羊座
七草粥の日に産まれる。
2013年より大衆文藝雑誌ムジカにて創作活動中。
詩集・天国の地図 電子書籍化 
ダウンロード販売中!

ムジカ04号絶賛発売中!
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