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ビーチサイドの人魚姫

うつ病回復のきっかけとなった詩集出版、うつ病、不登校、いじめ、引きこもり、虐待などを経験した著者が 迷える人達に心のメッセージを贈る、言葉のかけらを拾い集めてください。

詩集 天国の地図(レヴュー)。



詩集・天国の地図(文芸社から頂いた書評一部抜粋)。

*作者が20歳から28歳までの間に綴られた、全62作品からなる詩集である。「あとがき」によれば、作者が詩に興味を持ったのは20歳の時だという。そして、最初に手にした詩集は『伊藤整詩集』と『高見順の死の淵より』の2冊だったとも記されている。
作者は幼いころ「心臓弁膜症」に罹患し、最初に手術を受けた時のことを回想して、『手術台に上がれば』を書いたとのことである。それをきっかけに、いつの間にか62作品の詩が出来上がっていたらしい。そして、心臓弁膜症に起因するうつ病を患い、現在は回復の途上にあると記されている。ここに本作品群の最大の特質があると言えるだろう。
「うつ病」を克服し、社会復帰を目指す作者の個人史が、その内面の必然性によって詩文の形に表出した、痛切ながら鮮やかな「青春物語」なのである。
*「記念すべき最初の詩」と作者自身が言う『手術台に上がれば』は、純粋な孤独感を表現した作品と言えるだろう。社会的な関係によって成立する作者の日常世界が、手術という出来事によって断ち切られ、それによって自覚された意識の反復が、言語世界として抽象化されている。
「けたたましい車の騒音が/私の耳をつんざく/ああ――/今日もまた彼等は/あの騒がしいラッシュアワーの中を/仕事に出掛けて行く/愚かな独り言を呟いて/私は又眼を閉じた」―― 「私」は「彼等」とは異なる世界に疎隔されている。かつては自分も所属し、ほとんど意識することもなかった日常世界、それが今は決定的に遠いものとなり、 もはやそこに自分の居場所はない。断念と諦念、その後に訪れた孤絶感の淵に作者は重く佇んでおり、本作品はそれを見事に描き切っているのである。

*『偽りの蒼い空』や『不安』といった作品も強く印象に残る。『偽りの蒼い空』は、破綻した「愛」を扱った詩である。 「荒涼とした海の上を/私の魂は彷徨っている/現在と過去が綾取りをして/記憶の中を交錯している」といった部分では、青春の詩人・ランボーやヘルダーリンを彷彿とさせる、青春期のたゆたうような精神の「彷徨」が率直に表現されていると言えるだろう。また。『不安』では、「宿命」的な「病」への罹患体験 を経て、作者はその奥に「原罪」を見出していく。「眼に見えなく/形のないものが/僕の背中に横たわっている/それは/ずっしりと重く/動かない」―― 「不安」とは、無根拠に人間の精神を蝕み、苦しめ、抑圧するものである。それを作者は「原罪」と読み替えて解こうとしているのである。

*表題作『天国の地図』は、「死」という非日常の実感を「日常」世界に取り込んでしまった、作者にしか表現することのできない、洒脱で、距離感をもった作品と言えるだろう。
実際には余人の想像を大きく上回る苦しみであったに違いない。だが、作者は自己を「他者」として捉える視座を保っており、詩文には見事な距離感が達成されているのである。重みと痛切さの中にも洒脱さが感じられる所以である。
同様の苦しみの中にある読者なら大いに勇気づけられるだろうし、それ以外の人々も深く共感することだろう。


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シーツの上の愛。

シーツ



洗い立てのシーツに
愛を描いてみた
小指が不器用に這うだけで
愛はシーツの上を滑っていく
洗い立てのシーツの上で
愛が空回りしている




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消したがる子。

母の日



消しゴムでゴシゴシと
ノートの落書きを消し
机のいたずらを消し
嘘つきの自分を消し
ごまかしを消し
貧しさを消し
いじめを消し
学校を消し
虐待を消し
アルコールを消し
母を消し 父も消し
そして最後に
自分自身も 消してしまった



※消したがる子は幼少期の私であるが、昨今のいじめや児童虐待のニュースを聞く度に胸が締め付けられる想いがする。

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心不全の元凶は三尖弁逆流!

三尖弁


 スマフォで撮影した動画をYou Tubeにアップするほどでもなかったので、てっとり早くmp4をGifへと変換したものが↑である。昨年11月に受けた心臓の超音波検査心エコー)。これを見る限り重度の三尖弁逆流が起きている事が分かる。1989年4月に三井記念病院の循環器センターで僧帽弁置換術を受けてから30年の年月が流れた。人工弁はその長い年月を感じさせないほど軽快に動き全く問題なし。
 然し懸念は壊れた三尖弁であるがこれは二次性の機能性三尖弁逆流と呼ばれており、左心系の代表的な弁膜症(僧帽弁閉鎖不全)に起因している。この動画を見て分かる通り、青と赤の色が血液の逆流を示しており、心臓はそれを補うようにこれでもかと頑張って全身に血液を送り続けている。自分の意志でもないのに健気に動き続ける心臓を見ていると切なくて涙ぐんでしまった。
 何年か前に心不全で救急搬送された時の担当医から「神戸さんの心臓は手の施しようがない」と匙を投げられてしまったが、それでも私はしぶとくこうして生きている。薬で誤魔化しながら時には心細くて折れそうになっても、持ち前の運の良さで病気を笑い飛ばして来た。今回は心エコーと並行して腹部も検査対象となっていた。ALP609,LDH419、γ-GTP346とこの数値だけで判断すれば肝臓が悲鳴を上げているのも当然であるし、肝硬変を疑われても仕方のない事だが、検査結果では肝臓に明らかなSOL(肝内占拠病変)は無しと診断された。数値が高いのは今に始まった事でもなく10年以上前から続いている事で、主治医もその的確な原因究明には至っていない。
 但し、慢性心不全が長い期間に及んでいるため、加齢とともに臓器の至る場所に病変の疑いありと出ている。脾臓=副脾疑い、腎臓に関しても慢性腎不全の状態、胆嚢腺筋腫症疑い、両側多発腎嚢胞などなど…。それに加えて血糖値が7.0と高く明らかに糖尿病である。これは遺伝だから仕方がないにしてもインシュリンのお世話にならぬよう気を付けなければならない。不整脈も相変わらず脈が飛んだり跳ねたり暴れている。それは子どもの頃からなので自身は殆ど気にしていない。
 こんな病気だらけの身体でよく生きているものだと我ながら感心する。然し、2年近く入院もせず心不全も起こしていないのだから大したものである。病気が進行してるという自覚もない。まだまだ自分は頑張れる、いや頑張ってやる。1月に亡くなった友人の分までこの命を生き抜いてやる、そう心に誓う自分がいる。

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今度は子どもたちと新年会。

新年会2019


 1月14日、息子が新潟から上京して来たため娘と連絡を取り、西台駅近くの和食レストラン『天狗』に集合する事となった。息子とは別行動で前妻も出版社と新作絵本の打ち合わせも兼ねて上京して来た。19時30分に西台駅で娘と会い、そのまま天狗へと向かった。店に入り名前を告げると奥まった予約席へと案内された。すると前妻が既に到着しており笑顔で私たちを迎えた。
 息子は高速バスの渋滞で予定より30分遅れてやって来た。こうして元家族4人が一つのテーブルを囲むのは2009年3月に離婚して以来10年ぶりの事である。私の身体の事を考慮に入れてなるべく負担にならないメニューを注文してくれる。独身に戻ってからは殆ど毎日が一人の食事で味気ない食生活が身に染みているため、笑顔と料理がテーブル狭しと転げ回る様は何物にも代え難い至福の時間だった。
 娘と息子は子どもの頃の『はじめてのおつかい』で話が盛り上がっており、その会話を耳にしていると幼かった子どもたちの無邪気な姿が昨日の事のように浮かび上がって来た。当時は瑞江駅近くの分譲マンションに住んでおり、私は『うつ病』を発症したばかりで、家族や勤務先にも随分と迷惑を掛けた事を覚えている。
 休職中に体調の良い時は早朝散歩をリハビリの日課にしていた。愛猫のタラを公園で拾ったのはそんな時だった。生後一か月ほどの可愛い子猫を抱きかかえ自宅に戻ると、3人から「インコがいるから家では飼えない」と猛反対された。次の日、拾った公園に行き近所の家を一軒一軒訪ねて「お宅の猫では?」と聞いて回ったが、飼い主を見つける事が出来ず途方に暮れてしまった。私の腕の中で爪を立てながら「ニャー、ニャー」と泣き喚いている子猫を拾った場所に捨てるなどと言う事は到底出来ず、再び自宅へ連れて帰り「自分が面倒を見るから」と説得し飼うことを許されたが、一番可愛がっていたのは前妻だった。
 義母が猫アレルギーのため離婚した時にタラを引き取ったのは私で、脳梗塞で倒れるまでの3年間はタラと二人の生活だった。入院の度にタラの面倒を友人に頼んでいたが、それも限界があり前妻が新潟へと連れて帰った。タラは現在10歳の高齢だが、大好きな人の元で幸せに暮らしている。
 新年会の話題がいつの間にか猫の話しに入れ替わってしまったが、何れにせよこのような場を設けてくれた神様に感謝である。年始のスタートは口内の痛みで散々な目に合ったが、元家族の再会と言う特別ボーナスを頂いた気分で、今年も何とか無事に乗り切る事が出来そうである。

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夜の蝶。

夜の蝶



よ花よと煽てられ 幾つも嘘を呑み込んだ
グラスの数だけ男がいれば 噂の数だけ泣く女
手首の傷は癒せても 心に残った傷跡は
涙が枯れても 癒せない

ネオンひしめく夜の街 行き交う人の流れに任せ
酔った足取りあてもなく 拾った恋の後始末
夜の闇を舞うは 羽を休める場所求め
夢の谷間で 眠りにつくの

甘い蜜と恋の花咲くネオン街 毒に気付かぬ悲しい
それでも休まず羽ばたくの 
ひらりひらひら わたしのを あなたの肩に止まらせて
グラスの中に忍ぶ恋 探し求めて舞う女

そうよ わたし哀しい 夜の
涙こらえて舞い踊る ふわりはらりと羽ばたく想い
そうね わたし切ない 夜の蝶



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北川君、さようなら(追悼)。

北川君


 その訃報はあまりにも突然だったので、私は言葉を失ってしまった。口の中の傷がまだ完全に癒えていない1月8日の事だった。養護学校同窓生で先輩の『たきよ姉さん』から携帯に電話が入った。「かんべ、北さんが亡くなった…」私はいっとき誰の事なのか理解出来ず「北さん??」と返答に詰まった。「ほら、あの北さんだよ」「ああ!えっ?北川君亡くなったの??」。天竜養護学校で3年間一緒で同級生だった北川君の事だった。
 上の写真で前列右端にいるのが私(麦藁帽子を曲げて被っている)で、その隣に白いYシャツと白いズボン姿が北川君である。この写真について全く記憶にないのだが、おそらく学校近くにある森林公園に全校生徒で遠足に行った時のスナップ写真だろう。
 ここにはもう一人、同級生だった赤堀も写っている(後ろで学生服に学生帽)が、彼も10年ほど前に致死性不整脈で突然死している。16歳の時に私と同じ静岡市立病院で心室中隔欠損症の手術を受け、劇的に回復しそれ以後は病気とは無縁の生活を送り、結婚してからは8人の子どもに恵まれたにもかかわらず、あっけない最期であった。
 北川君は、転校前の学校で野球部のピッチャーをやっており、中学1年にしては背が高く体格も筋肉質で肩幅も広くガッシリしていたので、彼に何の病気なのかと尋ねると、「原因不明の高熱が出る」と教えてくれたが、養護学校での3年間に一度も熱を出すような事はなかった。病室も同じ12病棟の大部屋で私の正面が北川君だったから、朝から晩まで一日中一緒に生活していたようなものであった。
 午後の安静時間が終わると中庭に出て「おい、かんべ、キャッチャーやれ」と私にミットを渡し、座って構えている私目掛けて思い切りボールを投げて来る。さすが元ピッチャーだけあって、球は速く、重い。その球を取るのが怖くて、「早く終わってほしい」といつも思っていた。
 彼は面倒見が良く、他の生徒からも「北さん、北さん」と慕われていた。私も随分優しくして貰い、いつも彼からお菓子などを頂いたものである。磐田の高校へ進学した後に、10代で結婚した事もあり40代の時は既に孫がいたと記憶している。彼は留年のため私より2歳年上だったがクラスは同じで仲の良い兄弟のような関係だった。彼の息子の話しでは酒の飲み過ぎが祟ったのか、肝硬変が死因だっらしい。奇しくも彼の亡くなった日が1月7日、その日は私の誕生日である。
 こんな病気だらけの私なんかより次々と友人たちが先に逝ってしまう、その早すぎる死にやり切れない想いで一杯だ。北さん、そのうち私もそちらに行くから、そうしたら皆を集めて酒でも酌み交わしながら天国で同窓会でも開こうじゃないか、それまでもう少し待っててくれよ、北さん…(合掌)。

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みかんの花(父と母に捧ぐ)。

みかんの花



みかんの花が咲いたよ
蓮華寺山のふもとから頂上に向かって続く
みかん畑の中を可愛いメジロが幾羽も飛び交って
もぎたてのみかんを口いっぱいに頬張りながら
お姫平のてっぺんに立ち
藤枝の町並みを見下ろしたっけね
あなたの肩車で更に空が近くなり
青い海のように輝く美しい空に吸い込まれて行くようだった
風がザワザワとみかん畑を渡り
一斉にみかんの白い花が宙に舞う
舞い上がったその白い花々の中に紛れて
僕もあの人のいる空に行きたかった
今年もまたみかんの花が咲いたよ
一杯一杯 空に向かって舞ったんだよ


※お姫平について…。蓮華寺池を囲むように連なる山の頂きに、富士見平(標高110m)と、お姫平(標高82m)と呼ばれている場所がある。富士見平は、室町幕府の将軍・足利義教が1432年9月(永享4年)に、富士遊覧の目的で駿府に入る途中、鬼岩寺に宿泊した際、裏山に登って富士山を見物した場所であると言われている。この時、同行していた姫が富士山を眺めた場所にお姫平と名が付いた。

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2019年は波乱の幕開け。

2019年

 皆さま、明けましておめでとうございます。
 お正月気分もそろそろ抜け、巷は通常モードに戻りつつありますが、昨年12月下旬の体調不良を引き摺ったまま年を越し、正月を迎えてしまったため、ブログ更新もすっかり遅くなってしまいました。お粥ばかり食べていた事もあり、体力、気力の低下などで、中々パソコンに向かう元気もなく、正月気分は何処へやら…。
 異変が生じたのは昨年12月23日の深夜だった。11月に治療の終わった前歯辺りに突然の激痛が走り、これではとても眠れないと思い、残っていたカロナール(痛み止め)を服用。暫くすると痛みも和らぎ、いつの間にか眠っていた。
 翌朝、深夜の激痛が嘘のように治まっていたため、原因は分からなかったが一過性のものだろうとそのまま放置した。ところが数日後またも前歯辺りに異変を生じ今度は上顎の中央辺りが痛み出した。我慢出来ないほどではなかったので、カロナールを服用し様子をみた。痛みは一旦は治まるものの、薬の効果が切れると再び痛み出し、少し腫れて来ているようだった。そんな事を繰り返している内に29日~30日辺りに痛みのピークがやって来た。
 眠る事も食べる事も出来ず、水を飲むのもやっとだった。数年前の冬に蜂窩織炎(ほうかしきえん)で右顎が腫れてしまい緊急入院した経緯があったため、その再発かと不安になった。30日の深夜、入院覚悟の上で荷物をバッグに詰めた。そして眠れぬまま翌朝を迎え、三井記念病院の救急外来へ電話。
 看護師に症状を伝えると、「それは歯科の範疇で、歯科医が休みの為、診察も入院も出来ない」と、断られてしまった。掛かりつけの病院に診察を断られたのは初めてだったので、ショックで落ち込み途方に暮れてしまった。別の病院を探さなければと不安を抱きながら、ネットで31日診療の歯科医院を検索、すると『EPARK』と言う歯科専門サイトを発見!。日本全国の歯科を検索出来てネットから予約出来る仕組みとなっており、なんとか池袋西口に1件見つける事が出来た。
 12時の枠1つが空いており、急いで池袋へと向かった。心臓疾患や腎不全などで大量の薬を服用している事などを院長に告げると、ワーファリンの影響で出血のリスクがあるため、出来るだけ出血が少なく済むよう、レーザーメスを使用して切開し、溜まった膿を取り除いてもらった。
 薬は痛み止めのカロナールのみで、抗生剤は処方してもらえなかったが、後は自然治癒を待つだけと言われて安心した。これまでの緊張と疲れがドッと出て、帰りの電車内で眠ってしまった。傷口が完全に治るまでは雑炊お粥をだけを食べていた事もあり、体力もすっかり落ちてしまい、散々な正月となってしまった。
 こんな波乱含みのスタートとなった2019年ですが、皆さま、今年も昨年同様、宜しくお付き合いのほどお願い致します。
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今年は娘と忘年会。

焼き肉2018


 12月12日、忘年会を口実にして、西台駅近くにある牛繁で娘と焼き肉の会食を堪能した。既に承知の通り、私は厳しい食事制限のある身体なので、自分で注文する事は一切せず娘に全てを任せ、出された物をつまみ食いする程度。アルコールも今回は控えて冷たい緑茶のみとした。
 テーブルの上に大きなメニューを並べてそれを凝視する娘を見ていると、幼い頃のやんちゃな姿が蘇り、愛おしくそして微笑ましくもあった。
 娘は5分ほど睨めっこをした後にベルを押して店員を呼ぶ。歯切れの良い声で「カルビ、ロース、ハラミ、ホルモン・レバー、タン…、それとユッケ、イチゴミルクにチョレギサラダ」と、1回目の注文が終わる。私は内心、そんなに食べ切れるのかと思ったがいつもの事だから余り気にもしなかった。二人の間に真っ赤に燃える炭火の入った七輪が置かれる。外の寒さで冷え切った両手をすかさず温めた。
 注文した品が次々と運ばれて来ると、手際よく七輪の網の上に並べて行く娘。ご馳走を前に「おあずけ」をしている子どものような気分になった。焼け具合を見計らって私の皿に分けてよこす。充実した親子の時間が「パチパチ、ジューッ」と音を立てる肉の温かさでより一層深まっていく。
 雑談を笑顔で交わしながら、2回目の注文をし、最後は杏仁豆腐デザートを食べた。こうして親子の会食がいつまで続くか分からないが、子どもたちの為にも自己管理を徹底し、元気でいなければならないと改めて思った。

※この記事をもって今年のブログ更新を最後と致します。振り返れば2017年3月に心不全と抜歯で入院(8月は含まない)して以来、2年近くに渡って入院と縁のない日々が続いております。このように安定した状態を悪いなりにも維持出来ているのは、多くの皆さまの応援と温かい励ましがあったからこそだと思います。
 今年同様に、来年もビーチサイドの人魚姫を宜しくお願い致します。皆さま、どうぞ、良いお年をお迎え下さいませ。

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愛のワルツを(Dance with Me)。

ワルツ



せめて せめて もう一度だけ
愛のワルツを 奏でてよ
だから だから もう少しだけ
恋のワインで 酔わせてよ

夜露に濡れた窓ガラス  指でそっとなぞってみたの
あなたの名前が滲む夜  震える指先月灯り
書いては消して ため息ばかり

過去の人なら忘れもするが  止むに止まれぬこの想い
抱きしめてとは 言えないけれど
素直になれない女の意地が  冷めた心に煽り酒

だから だから もう一度だけ
愛のワルツを 奏でてよ
せめて せめて もう少しだけ
恋のワインで 酔わせてよ
深い眠りに付く頃は 背中合わせの忘れ物
そうよ そうよ 夜が明けるまで
愛のワルツで 踊りましょう


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久保田先生と小学1年生たち。

久保田先生


 この可愛い子どもたちと一緒に写っている方が、先に紹介した「さと子の日記」に登場する養護学校教師の久保田きすゑ先生である。先生は既に他界している為、2005年の同窓会に呼ぶ事が出来ずとても残念だった。
 久保田先生は小1時代のさと子ちゃんの担任でもあったが、実は私が養護学校に転校した際、最初に授業を受けたのも久保田先生だった。私は重い心臓病のため、最初の1ヶ月は通学の許可が下りず病室での授業だった。そして1日2時間と決められていた。担当の教師が自分のいる病室までやって来て、ベッド上でマンツーマン(ベッド授業)の授業を受けるのである。
 その最初の授業で久保田先生から国語を教わった事を今でも克明に記憶している。その後、通学の許可は下りたものの、やはり心臓病の事を考慮して1日4時間までという制約があり、その為、養護学校での3年間はまともな勉学とは無縁だったが、勉強が大嫌いな私にとっては好都合であった。この写真に写っている5人の子どもは小児喘息と記憶しているが、下列の右端の子、実年齢が11歳である。だが成長が止まってしまい身体も知能も4歳児程度だった。病名も不明で、身体中が黒い斑点のようなもので覆われ、他の子どもと比べてみても肌が黒い事がお分かり頂けるだろう。おそらく長くはいきられなかったと思われる。
 一般病棟には喘息自律神経失調症、心を病んでいる子も少なからずおり、最も多かったのは腎臓疾患で特にネフローゼの子どもが多かった。もし当時、人工透析などの医療技術が存在していれば命を落とさず助かった子も大勢いたと思われるが、私が過ごした3年間の内に数多くの幼い命が失われて行くのを目の当たりにして来た。
 さと子さんもそうだったように、幼い時から親元を離れ、約100人の子どもたちだけの集団生活の中で、小さいながらも夢や希望を持ち続け、闘病と勉学に励んでいたこの子らの姿を忘れる事は出来ない。私は幸運な事に今もこうして生き長らえる事が出来ている。そんな私に出来る事は、大人になれず散って行った多くの小さな命を心から供養する事だと思っている。

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シャワー哀歌。

シャワー



あなたより わたしが先に
シャワーを浴びる
ゆらり ゆらゆら 湯気の中
壊れるほど 抱き寄せ合っても
融け合うほど 重なり合っても
ひとつになれない わたしたち
二人で外した 指輪の跡が
恨めしそうに 白く くっきり残っている
実らぬ恋だと判っていても
咲くはずもない 永遠の花
あなたとわたしの 恋物語
シャワーの雫が哀しげに
背中を止め処なく流れ堕ちてゆく


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小説・届かなかった僕の歌(番外編)あとがき公開。

マイパソコン

 
 届かなかった僕の歌(番外編)は本編である『届かなかった僕の歌(三部作)』の青春編として執筆を始めたが、話しの展開として父・信夫についての記述が増えて来たため、番外編として新たに書き始めた。三部作の(幼少編)と被る部分も多少あるが、その大部分は信夫を中心とした実話を元に脚色している。
 酒と自尊心によって自ら寿命を縮めてしまった父。多くの人は「太く短く」「自業自得」と語るが、私の知る限り父が胸の奥に抱えていた希望や絶望、悩み、苦しみなどを一体誰が理解していただろうか…。酔えば必ず口にする「雪子」や「あぼじ」の事。それらは子どもだった私の耳にしか届いていない。
 馬鹿が付くほどお人好しで、騙されやすい正直者と言う一面もあり、他人に利用される事も度々あったのだろう。雪子が家を出て行き、そして亡くなった後も雪子の影を追い求めていた父。断ち切れない過去の亡霊は信夫を容赦なく苦しめたに違いない。
 その自ら背負った苦しみから逃れる唯一の方法が酒だったのである。決して美味い酒など飲んだ事がないと思えるほど酔った時の父は荒れており、その時だけが心の奥に溜まっている本音を吐き出せる時間だった。その切ない思いを持て余し、幼い私にだけ酒の力に頼ってぶつけて来るのである。
 40を過ぎて漸く後悔の念に目覚め、これまでの人生を取り戻そうと必死に働き出したが時既に遅く、病魔は有無も言わざす父の身体を蝕んで行った。
 信夫を乗せた小舟は希望と言う海に漕ぎ出し、迫り来る荒波を乗り越えながら、漸く安定した航路を見出していたのだが、信夫の運もそう長くは続かず、ついに尽き果ててしまう。おそらく多くの未練をこの世に残し逝ったであろう父の無念は如何ほどのものであったろうか…。
 残された息子として私に出来る事は、私の知っている父の生き様を少しでも多く脳裏に刻み込み、神戸信夫という一人の男が確かに生きていた痕跡を、この場を借りて記しておくことだと思っている。
   
                                                                                                                       2018年 4月 
                                      神戸 俊樹



※42歳の若さで散った父・信夫の半生を描いた長編ノンフィクション小説
※11月5日は父の命日(享年42歳)。死因は末期の肝硬変による食道静脈瘤破裂、発見時大量の血反吐を吐いていたのはその為と思われる。
※届かなかった僕の歌(番外編)は不十分な部分が多々あり完成品とは言えず、更に推敲を重ねる必要があると判断し、執筆を継続する事とした。

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さと子の日記(課題図書)。

さと子の日記


 本書『さと子の日記』は、静岡県浜松市に在った『ひくまの出版』から1982年に刊行された闘病記である。累計100万部を超えるベストセラーとなり課題図書にも選定されているため、既にご存知の方も多いのではないだろうか。
 先天性胆道閉鎖症のため、14歳の若さでこの世を去った著者が小学校入学の時期から死の直前までを書き綴った日記を書籍として纏め出版されたものである。その日記は私も嘗て過ごした事のある『静岡県立天竜養護学校』とそこに隣接する『国立療養所・天竜荘(現・天竜病院)』が舞台となっている。
 著者のさと子さんが生まれた時代(1966)には先天性胆道閉鎖症に対する根治療法の確立は無く不治の病とされており、彼女自身も肝硬変で絶命する事となった。本書を読み進めている内に、私も随分とお世話になった、社会科の沢田先生や国語の久保田先生たちとのやり取りが登場し、思わずその場にいるかのような臨場感を抱いたものである。
 彼女は1966年8月5日、静岡県榛原郡金谷町(現・島田市「私の故郷である藤枝市の隣町」)に生まれた。生後二ヶ月目には余命3ヶ月を宣告されていたという。親は我が子の命を助けるため、藁にもすがる思いであらゆる病院の門を叩いたが、何処の医者からも同じ言葉が返って来るだけであった。そして親戚から紹介された日本大学板橋病院にて、90%助からないと言われながらも最初の手術を受けた(当時の彼女は僅か7ヶ月であった)が、病態はあまり改善せず、4歳の時に再度手術を試みた。
 その2度目の手術が功を奏し大幅に落ち込んでいた体力も回復し1974年、静岡県立天竜養護学校に1年遅れで入学する事となり、治療ではなく通学の為の入院生活がスタートした。彼女自身が記す日記は小学1年の4月18日から始まっているが、小学6年の後半以降は肝機能障害に伴う病状が悪化し、中学1年の入学式は病床で迎える事となった。
 そして最期、1982年12月18日(中1)、14歳4ヶ月で彼女は帰らぬ人となってしまった。病状が悪化して以降も日記は滞りがちではあったが、中学1年の6月18日まで日記を綴っており、死の直前である12月に入ってからも、手の震えがとまれば年賀状を書くのだと最期の最期まで生きる希望を失っていなかった彼女の前向きな姿勢に、私はこうして文を認めていても感情移入してしまい涙が溢れ出して止まらない。
 入退院、通院を繰り返しながら養護学校に通う彼女であったが、学校や病院での日々の生活を日記に綴りながら、『生きること』を真正面から捉えるそのひたむきな姿は、病で苦しむ多くの人々を心から勇気づけたに違いない。そして彼女が本当の最期に発した言葉は「お母さん、手を握っていて…」だった。それはおそらく生まれた時から死を拒み続けて来た彼女の心の奥底から発した生きる事への執念だったのかも知れない。

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最後の背中(未刊詩集「最後の背中」より抜粋)。

母2018



あまりに幼過ぎた私には
あなたの心の葛藤や
苦しみを分からなかった
階段を降りる 
最後の
あなたの背中に染み込んだ
怒りや 悲しみを
今頃になって
やっと分かったような
気がします


「雪子(享年28歳)」の命日9月8日に合わせてアップする予定だった。当時3歳だった幼い私を残し、階段を降りて行く黒い服を来たの後ろ姿だけが今も鮮明に残っています。それが私の知るの最後の姿でした。

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蝋燭の灯りに父の優しさが浮かぶ夜。

ロウソク


 沖縄から北海道まで、日本列島の広範囲に亘って多大な被害を齎した台風24号。その猛威は深まる秋と共に去ったが、人智の及ばぬ自然エネルギーの強大さと威力をまざまざと見せ付けられた。首都圏では15年ぶりとなる40mに迫る暴風が吹き荒れ、まるで空全体が獣のような唸り声を上げているようだった。
 私の住む老朽化が進んだ木造アパートなどは激しい風に吹き飛ばされてしまうのではないかと、心細くなった。30日の午後11時辺りからそれまでの静寂を切り裂くような雨と風が急に激しくなり、午前0時を過ぎるとニュースの予報通り、暴風と叩きつけるような雨がより一層激しさを増し、公園の木々をユサユサと根刮ぎ揺らし始めている。
 雨戸を閉めても隙間から風が吹き込み、部屋が地震のようにミシミシと鈍い音を立てて揺れ始めた。不測の事態に備えて、一ヶ月分の薬と飲料水の入ったペットボトルそしてSECOMから貰った小さめの懐中電灯をバッグに詰め込んだ。
 身の危険が迫った時に即座に避難出来るよう、避難場所をハザードマップで確認する。私の住む地区で最も近い避難場所は小高い山の上にある志村第五小学校だが、心臓病を抱える私の身体がそこまでの坂道を登り切れるだろうか、しかも暴風の中である。一抹の不安を抱いたが、いざとなったら最後の切り札であるSECOMの緊急ボタンを押すしかない。周りや近くに手助けしてくれる人がいない点が独居暮らしの弱点でもあった。
 午前3時頃になって幾分雨足が弱まり、風も少し収まって来たのを見計らって雨戸を開け、外の様子を伺うと、ベランダの仕切り板が粉々に砕け散って、跡形もなくなっていた…。結局朝方まで眠る事が出来ず、テレビの台風情報ばかりを見詰めていた。
 私の友人が多く住んでいる静岡県浜松市では市内の8割が停電したと言う。全域が復旧するのに24時間以上掛かったようだ。一部地域では未だに停電が続いており、全面復旧まではまだ時間が必要と中部電力の職員が語っていた。
 私は台風が接近、或いは上陸すると幼き頃の想い出が走馬灯のように蘇る。忘れもしないそれは1966年9月、静岡県御前崎市に上陸した台風26号の事である。この時の最大瞬間風速は50.5mを記録し、雨も非常に強く静岡と山梨の山間部では1時間辺り120ミリの記録的豪雨となった。御前崎に近い藤枝市は台風の直撃を受け、暴風により停電が発生し夜の市内は暗闇に包まれた。
 懐中電灯などという洒落た物がなかった我が家は父が仏壇の引き出しから蝋燭を1本取り出し、マッチで火を点けた。真っ暗な部屋に蝋燭の炎が揺らめき父と私の影が揺れながら部屋中に広がった。「とし坊、この家は大きくて頑丈だからどんな台風が来ても大丈夫」と私を安心させるため、優しく言った。母は居なくとも僕には父がいる、「父ちゃんが守ってくれるから怖くなんかない」と心の中で思った。
 激しい暴風雨の中、外では「退避~、退避~」と消防団の声が飛び交っていた。父と二人で1本の蝋燭を囲みながら嵐が去るのを待った。酒に酔っていない時の父は優しく大好きだった。この台風では山梨県で100人以上の犠牲者を出し、静岡梅ケ島では鉄砲水が発生し甚大な被害を齎した。11月になれば42歳で逝った父の命日がやって来る。台風が来る度に思い出す父と蝋燭1本で過ごした嵐の夜を私は一生忘れる事はないだろう。

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E+motion2018アンソロジー集、好評発売中!

Anthology


俳句短歌、川柳、小説エッセイ絵画、漫画、写真etc…。
ジャンルを越えた未来型の総合藝術誌ここに登場!
谷川俊太郎、野村喜和夫らを筆頭に総勢68名のアーティストが集結。

書    名  E+motion2018
ISBN 978-4-9909736-2-9
    C0092 \1000E
 定    価 (本体1000円+税)
発行所  丘のうえ工房ムジカ

お求めは、全国の各書店及び、Amazon楽天ブックス紀伊國屋書店ウェブストア。

●参加メンバー●
谷川俊太郎、野村喜和夫、田原、大木潤子、望月遊馬、葛原りょう、颯木あやこ、白島真、大島健夫、宮坂新、葵生川玲、仙波枕、生野毅、葉山美玖、吉岡卓、新井豊吉、辻村麻乃、三上その子、加藤友香、岡田直樹、天海心音、中園直樹
堀本裕樹、冨田拓也、五島高資、干野風来子、山本たくや、つしまいくこ、市堀玉宗、田島良生、歌代美遙、倉田有希、髙坂明良、大和志保、晴山生菜、木下竣介、加部洋祐、綿田友恵、窪田政男、原夏至、潮なぎさ、矢澤重徳、椎野礼仁、菅原あきこ、中田實、滝口泰隆、久留素子、太田マスミ、石井真波、春未来、メグ、神戸俊樹、影法師、高林夕子、伊藤伸治、園部泉子、山本五郎、尾貝歩、りょすけ、藤田三保子、清水真理、田中流、香西文夫、齋藤洋由起、Tokin、滝沢汀、徳重英子、花空子、池田柊月 特別出演 武富健治(文芸漫画家)

※私の作品(短編小説)は顔写真付きプロフィールと共に234ページに掲載されております。

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漆黒の闇を切り裂く震度7!

北海道地震


 台風21号の爪痕も生々しく残り、その暴風の凄まじさをまざまざと見せ付けられたその矢先に北海道を襲った震度7の地震は『平成30年北海道胆振東部地震』と命名された。この地震で、道内をカバーする火力発電所が連鎖的に尽く運転を停止し、大規模停電ブラックアウト)を招く事となり、人間が創り上げて来たデジタル文化は一瞬にして自然の猛威の前に崩れ去った。
 地震による死亡者は10日の時点で41人となり捜索は終了した模様。最も懸念されていた電力不足は14日になって漸く電力供給の見通しが立ったとして、これまで続いていた節電目標20%は解除され数値目標なしの節電要請に緩和されたが地域によっては依然として過酷な状況が続いているようだ。
 物流停滞による食料品や飲料水、ガソリンの不足も札幌をはじめ道内各地で続いているため、市民生活を大きく脅かす材料となっており、一刻も早い交通網の整備と物流再開が待たれるが全面回復までにはまだ相当の時間が掛かるようで、未だ1500人あまりが避難生活を余儀なくされ、不安な日々を送っている。電力よりも更に厄介なのが水道管の破裂などによる断水だ。水は生活のあらゆる面で必要不可欠であり、命を繋ぐ最も大切な部分であるだけに一刻も早い復旧が望まれるが、未だ見通しは立っていない模様。
 7年前の東日本大震災発生時も、東京は震度5強の地震に襲われ、私の住む板橋区でも大きな横揺れが15秒ほど続き、至るところで被害が生じた。当時、私は体調が優れず床に臥せっており、地震発生時はひたすらベッドにしがみ付くしかなかった。棚の上に置いてあった大きめの空気清浄機がベッドの上に倒れ込み、押し入れの奥で寝ていた愛猫タラが物凄い勢いで飛び出しベッドの下に潜り込んでしまった。それから丸一日ベッドの下から出て来る事はなかった。
 危険を敏感に察知する能力は人間より動物の方が優れているのだろう。この時もやはり物流がストップし、食料品などがスーパーやコンビニの棚から消えてしまった。食料に困った私は静岡の友人に連絡を入れ、食料などを送ってくれるよう頼んだが、到着までに随分時間が掛かった記憶がある。それまでは非常食用にストックしておいた缶詰やレトルト物で凌いだ。
 豪雨、台風、地震と今年は例年以上に自然災害の発生が多い。しかもこれまでの常識が通用しない想定を越えた災害ばかりである。命を落とすほどの危険が身近になりつつある現状では、「まさか」と言う思い込みを捨て、あらゆる状況から身を守る術を学び身に付ける必要があるだろう。
 今年の冬の始まりが早い事を裏付けるかのように、北海道では130年ぶりの氷点下を観測したと言う。不自由極まりない避難生活が長引くほど心労が蓄積し、ストレスなどによって体調不良を起こし、命取りになるリスクも十分に考えられる。本格的な冬が到来する前に、温かい暖を取れるよう一日も早い完全復旧と平穏な日常が戻る事を祈るばかりである。

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ちびまる子ちゃんと清水時代の事(追悼)。

ちびまる子



 子どもから大人まで幅広いファン層に支持され、愛され続けた国民的人気アニメちびまる子ちゃん』の作者・さくらももこさんが、8月15日乳がんのため亡くなった。まだ53歳というその早すぎる死に多くのファンや関係者が言葉を失い悲嘆に暮れた。
 彼女ががんで闘病中だった事は一切公表されたいなかったこともあり、訃報が届いた時は「まさか?」の不意打ちで誰もが素直にその死を受け入れる事が出来なかったのではないだろうか。ここでももこさんについて多くを語る必要もないが、同じ郷里の出身者として鎮魂の意味も込めて記しておきたいと思う。
 彼女自身の幼き頃の姿を投影した「ちびまる子ちゃん(漫画)」は累計3千2百万部を越える国民的ベストセラーとなり、1990年からはアニメ化も始まり、日曜日の夕暮れ時、一家団欒のお茶の間には無くてはならない番組となった。主題歌の『おどるポンポコリン』は日本レコード大賞を受賞するなど、累計売上190万枚とアニメソングとしては空前絶後の大ヒットとなった。
 私は養護学校を卒業した後(15~16歳)、清水市(現:清水区)駒越にある療養型職業訓練施設に入所し、そこで約2年を過ごした。清水市万世町には親戚がおり、食道がんで亡くなった親友(53歳)も清水市出身で、友人・知人も多く住んでいるため清水は馴染み深い土地であった。
 休日ともなれば清水銀座商店街を友人たちと闊歩し、駅前銀座にあった長崎屋の販売員にひと目惚れし通い詰めたりと、恋愛の真似事や、早く大人になりたくて必死で背伸びしていたものである。施設から徒歩10分も歩けばそこには久能海岸が広がっており、波打際に並んだテトラポットに、駿河湾の荒波が音を立てて砕け散っていた。思春期の甘酸っぱい想い出がぎっしり詰まった清水時代でもある。
 海岸から富士山の方角に視線を投げれば手の届きそうな所に三保の松原があり、さくらももこさんもおそらく何度かは訪れていた事は想像が付く。彼女が清水市のどの辺りに住んでいたのかは知らないが、もしかすると幼少期の彼女と何処かですれ違ったり、施設の近所で元気に遊び回っていた小学生の女の子がももこさんだったりしたかも知れない。
 昭和49~50年前後の何気ないありふれた日常の一般家庭を描いた『ちびまる子ちゃん』の世界観は、昭和の良き時代のノスタルジーと相まって多くの人々の共感呼んだ。そしてまた現代社会で失われつつある家族本来の姿をユーモアも交えつつ、人との繋がりや家族の大切さを分かりやすく伝えてくれていた。
 きっと今頃は広い空の上ではしゃぎならが走り回っているちびまる子ちゃんが居るに違いない。さくらももこさん、お疲れさまでした。安らかにお眠り下さい(合掌)。

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息子と6年ぶりの会食!

悠飛2018


 7月21~22日の2日間、新潟にいる息子が上京して来た。21日は娘の所に泊まり翌日の22日、夜10時に西台駅で待ち合わせをして、そのままタクシーでアパート近くにある和食レストラン『とんでん』に入り遅いディナーを愉しんだ。
 私が注文した料理は和風ハンバーグ定食と生ビール。息子は秋葉原で友人と軽く食べて来たようで、ざる蕎麦とミニオホーツク丼。6月に娘と焼き肉を食べたので約1ヶ月ぶりの外食である。以前にも何度か話している通り、普段は味の薄い腎不全食(病人食)だから、この定食の量と味に「食べ切れるだろうか?」と一抹の不安を覚えたが、箸を付けてしまうと見た目よりも意外とあっさり味で、息子の顔を見られた事の喜びも相まって残す事なく全部を平らげる事が出来た。
 一人の時はアルコールも飲まないので、空きっ腹に僅か一杯の生ビールが身体中に染み渡り、顔が紅くなってしまった。息子と最後に会ったのは2012年の正月、まだ高校生で17歳だったから、6年ぶりの再会となる。高校生の時より少し太ったように見えたが、幼い頃の面影は健在で、肌が白いのは私の母に似たのかも知れないと思った。
 そんな息子も2年前に地元の娘さんと結婚し、今では一児の父親である。つまり私は「おじいちゃん」と呼ばれるようになった訳である。3人の子どもが居て、そして孫にも恵まれこれほど幸せな事もないだろう。天から授かったようなこの幸せを壊さない為にも、出来るだけ元気で長生きしなければとつくづく思う次第である。
 数年前、息子が私の詩集に興味を持ち、「手元にあるなら1冊送って欲しい」と言われた事があり、早速、送ってやると、数日経った後に詩の感想がlineで送られて来た。具体的な感想ではなかったが、お気に入りの作品が4点ほどあったらしく、詩集を大切に扱ってくれているようだ。その息子が今は小説を書いており、その短編小説が2次審査を通過し、雑誌に名前が載ったというではないか。母親が絵本作家だからやはりその血を受け継いでいるのかも知れない。
 母親曰く、かなりハイレベルな小説を書くようでついていけないと感心していた。自分の事はともかくとして、これでまた将来の楽しみが一つ増えたという事にもなる。私も息子に負けてはいられない、執筆途中の小説を元気な内になんとしても完成させなくては…。

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面影花火。

面影花火01



夜空を焦がして 舞い散る想い
たわむれ花火に 身をまかせ
浴衣の紐を ほどいたの
痛いほど突き刺す あなたの眼差し
忘れることなど なかったわ
けれどあなたは 遠い遠い空の果て
面影花火に 涙がにじむ

見上げるわたしと 見下ろすあなた
二人の間に 極彩色の雨が降る
夜空に消えゆく あなたの姿
追い掛けて 縋り付きたい この想い
わたしに 懺悔の抱擁 くれますか
けれどあなたは 過去の人
面影花火が 空に舞う

ヒュルル ヒュルル ヒュ~ルル
面影ゆれる 火花の海に
ヒュルル ヒュルル ヒュ~ルル
落ちる涙は 未練のしずく


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病気は薬と二人三脚で。

糖尿2018


 8月に入っても相変わらずの猛暑が続き、この暑さを喜んでいるのは喉を枯らして啼く蝉くらいのものだろうか…。私のように循環器系、特に心臓疾患を抱えている者としては、冬の寒さよりも汗をたっぷり掻く夏場の方が調子は良く有り難い。
 過去の例を取ってみても夏場に入院した事は一度もない。昨年8月の入院は抜歯の為だったので入院の数には入れていない。それを考えると一年以上に渡り入院とは縁がない、つまり心不全を起こしていないのである。
 数年前に心不全で緊急入院した時、担当医から3回目の心臓手術の話しを持ち掛けられたが、その手術が必ずしも現在の病状を回復させるものになるとは言えず、切ってみなければ分からないというギャンブル的要素もあったため即答は避け、その代わりもし夏場でも心不全を度々起こすようなら手術をお願いすると回答した。
 そんな事もあり、今年の夏が長ければ長いほど私は元気でいられると言う事になる。現時点で体重の増加は認めても浮腫むような事もなく、不整脈もバラバラながら落ち着いている。ところがである!5月の循環器・腎臓外来で、新たな病気が発覚したのである。それがなんと糖尿病…。循環器の主治医がたまたま血液検査を指示したのだが、HbA1c(ヘモグロビンエーワンシー)6.8、空腹時血糖値128と言う数値を見て主治医から「神戸さんこれは立派な糖尿病ですよ」と告げられてしまった。
 肝硬変の時と同様で私にとっては「寝耳に水」だった。2型糖尿病という事であったが、特に症状などはなく、切り傷や皮膚の傷が治り難いのはワーファリンを服用しているからであり、持病があれば似通った症状は現れるものである。原因として考えられるとすれば運動不足、年齢くらいのものだが、母方の祖母や叔父が糖尿病で亡くなっている事から、遺伝的要素も多分にあるのだろう。
 糖尿病と言っても数値的にはそれほど慌てて治療するほどでもなく、初期段階のため、血糖値を下げる薬を処方してもらった。それが上の画像、左から2番目の『テネリア』である。一番左の一包化された薬の殆どは循環器系の薬、強心剤、利尿剤3種、血圧を下げる薬、不整脈の薬など15種類。そして右側の薬はもう10年以上服用しているリフレックス(抗うつ剤)、サイレース(睡眠薬)である。
 歳を重ね病気も増えるに従って当然の如く薬も増えて行く訳だが、ここまで種類が増えてしまうと今更一つ二つ増えたところで気にする事もない。大切なのは薬だけに頼らず、薬の持つ効果を出来るだけ発揮させるために、生まれ付き持っている自己治癒力を信じ、前向きに病気と向き合う事である。病気は薬と二人三脚で治す、或いは改善させるものだと思う。

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地球温暖化と熱中症時代の到来!

熱波 


 先ずは皆さま、暑中御見舞い申し上げます。
 猛暑酷暑、そして烈暑と外出するのも躊躇うような殺人的な暑さが連日続き、埼玉県熊谷市では観測史上最高気温の41.1℃を記録するなど、日本列島各地が灼熱地獄と化している。僅か1週間に熱中症救急搬送された人が全国で2万2千人を超え、そのうち死亡者が65人にも及んでいると言う。まさにこれは災害ならぬ炎害であり、熱中症時代の幕開けとも言えるだろう。
 この猛暑は日本だけではなく世界各地で起こっており、米カリフォルニア州デスバレーでは52℃を観測、90人以上の死者が出るなど猛暑の凄まじさを物語っている。北欧の北極圏でもノルウェーで33℃を超え、スウェーデンでは至る所で森林火災が発生していると報じられている。またある国では猛烈な熱波の影響でアスファルトが溶け出し、中のコールタールが車のタイヤに絡みついて走行不能に陥ると言った信じ難い情報も飛び交っている。ベトナムでは南シナ海で発生した台風の影響で大洪水に見舞われて多数の死者が出ており、中国でも19万人が避難するなど、猛暑と豪雨がセットとなってアジア各地に被害を齎している模様。
 WMO(世界気象機関)によれば「北半球で異常な高温や豪雨、干ばつが発生するなど世界各地で異常気象が起きている」と警鐘を鳴らしている。これらの現象が気候変動によるものかは特定できないにしろ、温室効果ガスの上昇傾向には関連しているだろうと述べており、各地の異常気象の背景に森林伐採などの環境破壊も地球温暖化に拍車をかけているものと思われる。
 このまま温暖化の状態が進めば、そう遠くない未来で35℃を超える体温並みの気温が当たり前となり、日本では四季が無くなり夏と冬だけが交互に訪れるという、極端な気候に陥り、私たちの生活環境や生活スタイルも大きく変化せざるを得ない状況になる事も考えられる。
 日本の美しい四季を守るために私たちがやるべき事は温室効果ガス排出削減の努力であり、それが自分の身を守る、或いは未来の子どもたちに残す環境と言う財産にも繋がるのである。地球の環境を生かすも殺すも私たち人間の心がけ次第、自分の命を守りたければ地球に優しく接する事、それが責務ではないだろうか…。

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雨が恐怖に変わる時(西日本豪雨に思う)。

西日本


 地震の次は大雨と、次から次と襲い来る自然の猛威に、私たち人間は為す術もなく余りにも無力だ。家を失うのは致し方ないにしても最優先すべきは命であり、生きてさえいればやり直す事は出来るが然し、有無も言わさぬ突然の喪失感は後にPTSDとなって人の心を蝕み苦しみ続けるかも知れない。それでも人間の持つ未知なるパワーを信じて、明日に向かって歩を進めなければならない。命ある限り希望は必ずや見えて来るだろうから。
 平成に入り最悪の水害となった西日本豪雨。休むことなく3日3晩に渡り降り続いたその雨は、聖書に登場するノアの大洪水を想起させるほどだった。空には湿り気をたっぷり含んだ暗雲が重く垂れ込め、未曾有の雨が容赦なく地上に降り注ぎ、各地で土砂崩れを招き、河川は堪り兼ねたように氾濫し木材や巨大な岩石を押し流し、川沿いに点在する町や村を尽く呑み込んで行った。
 私はこの凄まじい豪雨のニュースを知った時、44年前に故郷の静岡を襲った水害を思い出さずにはいられなかった。それは私が10代の時に体験した大災害の事であり、『七夕豪雨』と命名され、人気アニメ『ちびまる子ちゃん』の中で『まるちゃんの町は大洪水』と題して紹介されている。
 台風8号の影響を受けた梅雨前線の活動が活発になり、24時間連続降水量が508ミリに達し、静岡地方気象台観測史上最高記録となった。この雨により静岡市内を流れる安倍川と、清水市内を流れる巴川が各所で決壊、氾濫が発生、昭和史上に残る大水害を招いた。当時の私は仕事をしながら夜間のデザイン学校に通っており、その夜は課題のデッサンを完成させるため、会社の事務所で一人、黙々と鉛筆を走らせていた。雨が降り続いているのは知っていたが気にも留めなかった。
 時計が午前0時に差し掛かり、眠気も強くなったので帰る準備をし、1階作業場のシャッターを開けて外を見た時、真っ暗な空から槍の先のような雨が凄まじい音を立ててアスファルトの地面を叩きつけていた。それは初めて雨の恐怖を肌で感じた瞬間だった。この雨ではとても帰れないだろうと思い、その晩は事務所のソファに寝る事にしたのだが…。
 睡魔に襲われ深い眠りに落ちた後、どのくらい時間が経過したか分からぬが、耳元で「ピチャピチャ」という水の音に起こされた。事務所の電気は点けたままにしておいた筈だったが、それも消えて辺りは真っ暗闇。外では相変わらず激しい雨音がしている。ソファの少し下に手をやると一面が雨水で溢れ返っており、「このままではヤバイ」と身の危険を感じたため、真っ暗な中を手探りで2階の作業場に避難し、雨が止むのを震えながら待った。
 外が明るくなると同時に雨も止んだため、少し安堵しつつ1階の作業場を覗くと泥水と一緒にあらゆる物がプカプカと浮かんでいる。これは大変な事になったと不安が身体中を駆け巡った。1階のシャッターを開け外に出ると辺り一面がまるで海のようになっており、茶色の泥水に混じって瓶や缶、日用品などが止めどなく流れついていた。
 兎に角、自宅に帰らなくてはと思い、泥水の中を歩いて行ったが水は腰の辺りまで達しており、徒歩数分の所にある自宅アパートまでは随分時間が掛かってしまった。路地から広い通りに出ると、普段なら車の往来で激しい道路の上をモーターボートが水飛沫を上げて走っていると言う信じ難い光景を目の当たりにした。自宅は2階だったため難を逃れる事が出来た。そしてそれから一週間はゴミや土砂の片付け、消毒作業などに明け暮れ、洪水前の日常が戻るまでに一ヶ月ほど掛かった。2階の屋根辺りまで泥水に浸かった家の住人が屋根から助けを求め、自衛隊のヘリが救助しているシーンをいまでも鮮明に覚えているが、残念な事に同級生数人の家はこの豪雨で流されてしまったと言う。
 このような経験はもう二度としたくはないが、いつまた災害に巻き込まれるか明日は我が身である。先ずは安全確保と命を守る事に徹し、災害を乗り切って行ければと思う。最も被害の大きかった広島、岡山、愛媛の各地域では、急ピッチで復旧作業や捜索が続いているが、連日の猛暑土砂瓦礫の山に阻まれ、作業は難航している。
 困っている時はお互い様である。こんな時ほど普段の人との繋がりが如何に大切であるかを思い知らされる。炎天下での復旧作業は想像を遥かに超えるほど人の体力を奪って行く。避難所生活が長引くほど心身の疲労は蓄積して行くだろう。辛い時だからこそお互いに助け合いマンパワーを信じて乗り切って行って欲しい。最後に被災された方たちへのお見舞いと、犠牲になった多くの方々のご冥福を祈り、一日も早い復興が進む事を願って止みません。

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