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詩集 天国の地図(レヴュー)。



詩集・天国の地図(文芸社から頂いた書評一部抜粋)。

*作者が20歳から28歳までの間に綴られた、全62作品からなる詩集である。「あとがき」によれば、作者が詩に興味を持ったのは20歳の時だという。そして、最初に手にした詩集は『伊藤整詩集』と『高見順の死の淵より』の2冊だったとも記されている。
作者は幼いころ「心臓弁膜症」に罹患し、最初に手術を受けた時のことを回想して、『手術台に上がれば』を書いたとのことである。それをきっかけに、いつの間にか62作品の詩が出来上がっていたらしい。そして、心臓弁膜症に起因するうつ病を患い、現在は回復の途上にあると記されている。ここに本作品群の最大の特質があると言えるだろう。
「うつ病」を克服し、社会復帰を目指す作者の個人史が、その内面の必然性によって詩文の形に表出した、痛切ながら鮮やかな「青春物語」なのである。
*「記念すべき最初の詩」と作者自身が言う『手術台に上がれば』は、純粋な孤独感を表現した作品と言えるだろう。社会的な関係によって成立する作者の日常世界が、手術という出来事によって断ち切られ、それによって自覚された意識の反復が、言語世界として抽象化されている。
「けたたましい車の騒音が/私の耳をつんざく/ああ――/今日もまた彼等は/あの騒がしいラッシュアワーの中を/仕事に出掛けて行く/愚かな独り言を呟いて/私は又眼を閉じた」―― 「私」は「彼等」とは異なる世界に疎隔されている。かつては自分も所属し、ほとんど意識することもなかった日常世界、それが今は決定的に遠いものとなり、 もはやそこに自分の居場所はない。断念と諦念、その後に訪れた孤絶感の淵に作者は重く佇んでおり、本作品はそれを見事に描き切っているのである。

*『偽りの蒼い空』や『不安』といった作品も強く印象に残る。『偽りの蒼い空』は、破綻した「愛」を扱った詩である。 「荒涼とした海の上を/私の魂は彷徨っている/現在と過去が綾取りをして/記憶の中を交錯している」といった部分では、青春の詩人・ランボーやヘルダーリンを彷彿とさせる、青春期のたゆたうような精神の「彷徨」が率直に表現されていると言えるだろう。また。『不安』では、「宿命」的な「病」への罹患体験 を経て、作者はその奥に「原罪」を見出していく。「眼に見えなく/形のないものが/僕の背中に横たわっている/それは/ずっしりと重く/動かない」―― 「不安」とは、無根拠に人間の精神を蝕み、苦しめ、抑圧するものである。それを作者は「原罪」と読み替えて解こうとしているのである。

*表題作『天国の地図』は、「死」という非日常の実感を「日常」世界に取り込んでしまった、作者にしか表現することのできない、洒脱で、距離感をもった作品と言えるだろう。
実際には余人の想像を大きく上回る苦しみであったに違いない。だが、作者は自己を「他者」として捉える視座を保っており、詩文には見事な距離感が達成されているのである。重みと痛切さの中にも洒脱さが感じられる所以である。
同様の苦しみの中にある読者なら大いに勇気づけられるだろうし、それ以外の人々も深く共感することだろう。


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2019年は波乱の幕開け。

2019年

 皆さま、明けましておめでとうございます。
 お正月気分もそろそろ抜け、巷は通常モードに戻りつつありますが、昨年12月下旬の体調不良を引き摺ったまま年を越し、正月を迎えてしまったため、ブログ更新もすっかり遅くなってしまいました。お粥ばかり食べていた事もあり、体力、気力の低下などで、中々パソコンに向かう元気もなく、正月気分は何処へやら…。
 異変が生じたのは昨年12月23日の深夜だった。11月に治療の終わった前歯辺りに突然の激痛が走り、これではとても眠れないと思い、残っていたカロナール(痛み止め)を服用。暫くすると痛みも和らぎ、いつの間にか眠っていた。
 翌朝、深夜の激痛が嘘のように治まっていたため、原因は分からなかったが一過性のものだろうとそのまま放置した。ところが数日後またも前歯辺りに異変を生じ今度は上顎の中央辺りが痛み出した。我慢出来ないほどではなかったので、カロナールを服用し様子をみた。痛みは一旦は治まるものの、薬の効果が切れると再び痛み出し、少し腫れて来ているようだった。そんな事を繰り返している内に29日~30日辺りに痛みのピークがやって来た。
 眠る事も食べる事も出来ず、水を飲むのもやっとだった。数年前の冬に蜂窩織炎(ほうかしきえん)で右顎が腫れてしまい緊急入院した経緯があったため、その再発かと不安になった。30日の深夜、入院覚悟の上で荷物をバッグに詰めた。そして眠れぬまま翌朝を迎え、三井記念病院の救急外来へ電話。
 看護師に症状を伝えると、「それは歯科の範疇で、歯科医が休みの為、診察も入院も出来ない」と、断られてしまった。掛かりつけの病院に診察を断られたのは初めてだったので、ショックで落ち込み途方に暮れてしまった。別の病院を探さなければと不安を抱きながら、ネットで31日診療の歯科医院を検索、すると『EPARK』と言う歯科専門サイトを発見!。日本全国の歯科を検索出来てネットから予約出来る仕組みとなっており、なんとか池袋西口に1件見つける事が出来た。
 12時の枠1つが空いており、急いで池袋へと向かった。心臓疾患や腎不全などで大量の薬を服用している事などを院長に告げると、ワーファリンの影響で出血のリスクがあるため、出来るだけ出血が少なく済むよう、レーザーメスを使用して切開し、溜まった膿を取り除いてもらった。
 薬は痛み止めのカロナールのみで、抗生剤は処方してもらえなかったが、後は自然治癒を待つだけと言われて安心した。これまでの緊張と疲れがドッと出て、帰りの電車内で眠ってしまった。傷口が完全に治るまでは雑炊お粥をだけを食べていた事もあり、体力もすっかり落ちてしまい、散々な正月となってしまった。
 こんな波乱含みのスタートとなった2019年ですが、皆さま、今年も昨年同様、宜しくお付き合いのほどお願い致します。
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今年は娘と忘年会。

焼き肉2018


 12月12日、忘年会を口実にして、西台駅近くにある牛繁で娘と焼き肉の会食を堪能した。既に承知の通り、私は厳しい食事制限のある身体なので、自分で注文する事は一切せず娘に全てを任せ、出された物をつまみ食いする程度。アルコールも今回は控えて冷たい緑茶のみとした。
 テーブルの上に大きなメニューを並べてそれを凝視する娘を見ていると、幼い頃のやんちゃな姿が蘇り、愛おしくそして微笑ましくもあった。
 娘は5分ほど睨めっこをした後にベルを押して店員を呼ぶ。歯切れの良い声で「カルビ、ロース、ハラミ、ホルモン・レバー、タン…、それとユッケ、イチゴミルクにチョレギサラダ」と、1回目の注文が終わる。私は内心、そんなに食べ切れるのかと思ったがいつもの事だから余り気にもしなかった。二人の間に真っ赤に燃える炭火の入った七輪が置かれる。外の寒さで冷え切った両手をすかさず温めた。
 注文した品が次々と運ばれて来ると、手際よく七輪の網の上に並べて行く娘。ご馳走を前に「おあずけ」をしている子どものような気分になった。焼け具合を見計らって私の皿に分けてよこす。充実した親子の時間が「パチパチ、ジューッ」と音を立てる肉の温かさでより一層深まっていく。
 雑談を笑顔で交わしながら、2回目の注文をし、最後は杏仁豆腐デザートを食べた。こうして親子の会食がいつまで続くか分からないが、子どもたちの為にも自己管理を徹底し、元気でいなければならないと改めて思った。

※この記事をもって今年のブログ更新を最後と致します。振り返れば2017年3月に心不全と抜歯で入院(8月は含まない)して以来、2年近くに渡って入院と縁のない日々が続いております。このように安定した状態を悪いなりにも維持出来ているのは、多くの皆さまの応援と温かい励ましがあったからこそだと思います。
 今年同様に、来年もビーチサイドの人魚姫を宜しくお願い致します。皆さま、どうぞ、良いお年をお迎え下さいませ。

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愛のワルツを(Dance with Me)。

ワルツ



せめて せめて もう一度だけ
愛のワルツを 奏でてよ
だから だから もう少しだけ
恋のワインで 酔わせてよ

夜露に濡れた窓ガラス  指でそっとなぞってみたの
あなたの名前が滲む夜  震える指先月灯り
書いては消して ため息ばかり

過去の人なら忘れもするが  止むに止まれぬこの想い
抱きしめてとは 言えないけれど
素直になれない女の意地が  冷めた心に煽り酒

だから だから もう一度だけ
愛のワルツを 奏でてよ
せめて せめて もう少しだけ
恋のワインで 酔わせてよ
深い眠りに付く頃は 背中合わせの忘れ物
そうよ そうよ 夜が明けるまで
愛のワルツで 踊りましょう


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久保田先生と小学1年生たち。

久保田先生


 この可愛い子どもたちと一緒に写っている方が、先に紹介した「さと子の日記」に登場する養護学校教師の久保田きすゑ先生である。先生は既に他界している為、2005年の同窓会に呼ぶ事が出来ずとても残念だった。
 久保田先生は小1時代のさと子ちゃんの担任でもあったが、実は私が養護学校に転校した際、最初に授業を受けたのも久保田先生だった。私は重い心臓病のため、最初の1ヶ月は通学の許可が下りず病室での授業だった。そして1日2時間と決められていた。担当の教師が自分のいる病室までやって来て、ベッド上でマンツーマン(ベッド授業)の授業を受けるのである。
 その最初の授業で久保田先生から国語を教わった事を今でも克明に記憶している。その後、通学の許可は下りたものの、やはり心臓病の事を考慮して1日4時間までという制約があり、その為、養護学校での3年間はまともな勉学とは無縁だったが、勉強が大嫌いな私にとっては好都合であった。この写真に写っている5人の子どもは小児喘息と記憶しているが、下列の右端の子、実年齢が11歳である。だが成長が止まってしまい身体も知能も4歳児程度だった。病名も不明で、身体中が黒い斑点のようなもので覆われ、他の子どもと比べてみても肌が黒い事がお分かり頂けるだろう。おそらく長くはいきられなかったと思われる。
 一般病棟には喘息自律神経失調症、心を病んでいる子も少なからずおり、最も多かったのは腎臓疾患で特にネフローゼの子どもが多かった。もし当時、人工透析などの医療技術が存在していれば命を落とさず助かった子も大勢いたと思われるが、私が過ごした3年間の内に数多くの幼い命が失われて行くのを目の当たりにして来た。
 さと子さんもそうだったように、幼い時から親元を離れ、約100人の子どもたちだけの集団生活の中で、小さいながらも夢や希望を持ち続け、闘病と勉学に励んでいたこの子らの姿を忘れる事は出来ない。私は幸運な事に今もこうして生き長らえる事が出来ている。そんな私に出来る事は、大人になれず散って行った多くの小さな命を心から供養する事だと思っている。

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シャワー哀歌。

シャワー



あなたより わたしが先に
シャワーを浴びる
ゆらり ゆらゆら 湯気の中
壊れるほど 抱き寄せ合っても
融け合うほど 重なり合っても
ひとつになれない わたしたち
二人で外した 指輪の跡が
恨めしそうに 白く くっきり残っている
実らぬ恋だと判っていても
咲くはずもない 永遠の花
あなたとわたしの 恋物語
シャワーの雫が哀しげに
背中を止め処なく流れ堕ちてゆく


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小説・届かなかった僕の歌(番外編)あとがき公開。

マイパソコン

 
 届かなかった僕の歌(番外編)は本編である『届かなかった僕の歌(三部作)』の青春編として執筆を始めたが、話しの展開として父・信夫についての記述が増えて来たため、番外編として新たに書き始めた。三部作の(幼少編)と被る部分も多少あるが、その大部分は信夫を中心とした実話を元に脚色している。
 酒と自尊心によって自ら寿命を縮めてしまった父。多くの人は「太く短く」「自業自得」と語るが、私の知る限り父が胸の奥に抱えていた希望や絶望、悩み、苦しみなどを一体誰が理解していただろうか…。酔えば必ず口にする「雪子」や「あぼじ」の事。それらは子どもだった私の耳にしか届いていない。
 馬鹿が付くほどお人好しで、騙されやすい正直者と言う一面もあり、他人に利用される事も度々あったのだろう。雪子が家を出て行き、そして亡くなった後も雪子の影を追い求めていた父。断ち切れない過去の亡霊は信夫を容赦なく苦しめたに違いない。
 その自ら背負った苦しみから逃れる唯一の方法が酒だったのである。決して美味い酒など飲んだ事がないと思えるほど酔った時の父は荒れており、その時だけが心の奥に溜まっている本音を吐き出せる時間だった。その切ない思いを持て余し、幼い私にだけ酒の力に頼ってぶつけて来るのである。
 40を過ぎて漸く後悔の念に目覚め、これまでの人生を取り戻そうと必死に働き出したが時既に遅く、病魔は有無も言わざす父の身体を蝕んで行った。
 信夫を乗せた小舟は希望と言う海に漕ぎ出し、迫り来る荒波を乗り越えながら、漸く安定した航路を見出していたのだが、信夫の運もそう長くは続かず、ついに尽き果ててしまう。おそらく多くの未練をこの世に残し逝ったであろう父の無念は如何ほどのものであったろうか…。
 残された息子として私に出来る事は、私の知っている父の生き様を少しでも多く脳裏に刻み込み、神戸信夫という一人の男が確かに生きていた痕跡を、この場を借りて記しておくことだと思っている。
   
                                                                                                                       2018年 4月 
                                      神戸 俊樹



※42歳の若さで散った父・信夫の半生を描いた長編ノンフィクション小説
※11月5日は父の命日(享年42歳)。死因は末期の肝硬変による食道静脈瘤破裂、発見時大量の血反吐を吐いていたのはその為と思われる。
※届かなかった僕の歌(番外編)は不十分な部分が多々あり完成品とは言えず、更に推敲を重ねる必要があると判断し、執筆を継続する事とした。

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さと子の日記(課題図書)。

さと子の日記


 本書『さと子の日記』は、静岡県浜松市に在った『ひくまの出版』から1982年に刊行された闘病記である。累計100万部を超えるベストセラーとなり課題図書にも選定されているため、既にご存知の方も多いのではないだろうか。
 先天性胆道閉鎖症のため、14歳の若さでこの世を去った著者が小学校入学の時期から死の直前までを書き綴った日記を書籍として纏め出版されたものである。その日記は私も嘗て過ごした事のある『静岡県立天竜養護学校』とそこに隣接する『国立療養所・天竜荘(現・天竜病院)』が舞台となっている。
 著者のさと子さんが生まれた時代(1966)には先天性胆道閉鎖症に対する根治療法の確立は無く不治の病とされており、彼女自身も肝硬変で絶命する事となった。本書を読み進めている内に、私も随分とお世話になった、社会科の沢田先生や国語の久保田先生たちとのやり取りが登場し、思わずその場にいるかのような臨場感を抱いたものである。
 彼女は1966年8月5日、静岡県榛原郡金谷町(現・島田市「私の故郷である藤枝市の隣町」)に生まれた。生後二ヶ月目には余命3ヶ月を宣告されていたという。親は我が子の命を助けるため、藁にもすがる思いであらゆる病院の門を叩いたが、何処の医者からも同じ言葉が返って来るだけであった。そして親戚から紹介された日本大学板橋病院にて、90%助からないと言われながらも最初の手術を受けた(当時の彼女は僅か7ヶ月であった)が、病態はあまり改善せず、4歳の時に再度手術を試みた。
 その2度目の手術が功を奏し大幅に落ち込んでいた体力も回復し1974年、静岡県立天竜養護学校に1年遅れで入学する事となり、治療ではなく通学の為の入院生活がスタートした。彼女自身が記す日記は小学1年の4月18日から始まっているが、小学6年の後半以降は肝機能障害に伴う病状が悪化し、中学1年の入学式は病床で迎える事となった。
 そして最期、1982年12月18日(中1)、14歳4ヶ月で彼女は帰らぬ人となってしまった。病状が悪化して以降も日記は滞りがちではあったが、中学1年の6月18日まで日記を綴っており、死の直前である12月に入ってからも、手の震えがとまれば年賀状を書くのだと最期の最期まで生きる希望を失っていなかった彼女の前向きな姿勢に、私はこうして文を認めていても感情移入してしまい涙が溢れ出して止まらない。
 入退院、通院を繰り返しながら養護学校に通う彼女であったが、学校や病院での日々の生活を日記に綴りながら、『生きること』を真正面から捉えるそのひたむきな姿は、病で苦しむ多くの人々を心から勇気づけたに違いない。そして彼女が本当の最期に発した言葉は「お母さん、手を握っていて…」だった。それはおそらく生まれた時から死を拒み続けて来た彼女の心の奥底から発した生きる事への執念だったのかも知れない。

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最後の背中(未刊詩集「最後の背中」より抜粋)。

母2018



あまりに幼過ぎた私には
あなたの心の葛藤や
苦しみを分からなかった
階段を降りる 
最後の
あなたの背中に染み込んだ
怒りや 悲しみを
今頃になって
やっと分かったような
気がします


「雪子(享年28歳)」の命日9月8日に合わせてアップする予定だった。当時3歳だった幼い私を残し、階段を降りて行く黒い服を来たの後ろ姿だけが今も鮮明に残っています。それが私の知るの最後の姿でした。

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蝋燭の灯りに父の優しさが浮かぶ夜。

ロウソク


 沖縄から北海道まで、日本列島の広範囲に亘って多大な被害を齎した台風24号。その猛威は深まる秋と共に去ったが、人智の及ばぬ自然エネルギーの強大さと威力をまざまざと見せ付けられた。首都圏では15年ぶりとなる40mに迫る暴風が吹き荒れ、まるで空全体が獣のような唸り声を上げているようだった。
 私の住む老朽化が進んだ木造アパートなどは激しい風に吹き飛ばされてしまうのではないかと、心細くなった。30日の午後11時辺りからそれまでの静寂を切り裂くような雨と風が急に激しくなり、午前0時を過ぎるとニュースの予報通り、暴風と叩きつけるような雨がより一層激しさを増し、公園の木々をユサユサと根刮ぎ揺らし始めている。
 雨戸を閉めても隙間から風が吹き込み、部屋が地震のようにミシミシと鈍い音を立てて揺れ始めた。不測の事態に備えて、一ヶ月分の薬と飲料水の入ったペットボトルそしてSECOMから貰った小さめの懐中電灯をバッグに詰め込んだ。
 身の危険が迫った時に即座に避難出来るよう、避難場所をハザードマップで確認する。私の住む地区で最も近い避難場所は小高い山の上にある志村第五小学校だが、心臓病を抱える私の身体がそこまでの坂道を登り切れるだろうか、しかも暴風の中である。一抹の不安を抱いたが、いざとなったら最後の切り札であるSECOMの緊急ボタンを押すしかない。周りや近くに手助けしてくれる人がいない点が独居暮らしの弱点でもあった。
 午前3時頃になって幾分雨足が弱まり、風も少し収まって来たのを見計らって雨戸を開け、外の様子を伺うと、ベランダの仕切り板が粉々に砕け散って、跡形もなくなっていた…。結局朝方まで眠る事が出来ず、テレビの台風情報ばかりを見詰めていた。
 私の友人が多く住んでいる静岡県浜松市では市内の8割が停電したと言う。全域が復旧するのに24時間以上掛かったようだ。一部地域では未だに停電が続いており、全面復旧まではまだ時間が必要と中部電力の職員が語っていた。
 私は台風が接近、或いは上陸すると幼き頃の想い出が走馬灯のように蘇る。忘れもしないそれは1966年9月、静岡県御前崎市に上陸した台風26号の事である。この時の最大瞬間風速は50.5mを記録し、雨も非常に強く静岡と山梨の山間部では1時間辺り120ミリの記録的豪雨となった。御前崎に近い藤枝市は台風の直撃を受け、暴風により停電が発生し夜の市内は暗闇に包まれた。
 懐中電灯などという洒落た物がなかった我が家は父が仏壇の引き出しから蝋燭を1本取り出し、マッチで火を点けた。真っ暗な部屋に蝋燭の炎が揺らめき父と私の影が揺れながら部屋中に広がった。「とし坊、この家は大きくて頑丈だからどんな台風が来ても大丈夫」と私を安心させるため、優しく言った。母は居なくとも僕には父がいる、「父ちゃんが守ってくれるから怖くなんかない」と心の中で思った。
 激しい暴風雨の中、外では「退避~、退避~」と消防団の声が飛び交っていた。父と二人で1本の蝋燭を囲みながら嵐が去るのを待った。酒に酔っていない時の父は優しく大好きだった。この台風では山梨県で100人以上の犠牲者を出し、静岡梅ケ島では鉄砲水が発生し甚大な被害を齎した。11月になれば42歳で逝った父の命日がやって来る。台風が来る度に思い出す父と蝋燭1本で過ごした嵐の夜を私は一生忘れる事はないだろう。

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E+motion2018アンソロジー集、好評発売中!

Anthology


俳句短歌、川柳、小説エッセイ絵画、漫画、写真etc…。
ジャンルを越えた未来型の総合藝術誌ここに登場!
谷川俊太郎、野村喜和夫らを筆頭に総勢68名のアーティストが集結。

書    名  E+motion2018
ISBN 978-4-9909736-2-9
    C0092 \1000E
 定    価 (本体1000円+税)
発行所  丘のうえ工房ムジカ

お求めは、全国の各書店及び、Amazon楽天ブックス紀伊國屋書店ウェブストア。

●参加メンバー●
谷川俊太郎、野村喜和夫、田原、大木潤子、望月遊馬、葛原りょう、颯木あやこ、白島真、大島健夫、宮坂新、葵生川玲、仙波枕、生野毅、葉山美玖、吉岡卓、新井豊吉、辻村麻乃、三上その子、加藤友香、岡田直樹、天海心音、中園直樹
堀本裕樹、冨田拓也、五島高資、干野風来子、山本たくや、つしまいくこ、市堀玉宗、田島良生、歌代美遙、倉田有希、髙坂明良、大和志保、晴山生菜、木下竣介、加部洋祐、綿田友恵、窪田政男、原夏至、潮なぎさ、矢澤重徳、椎野礼仁、菅原あきこ、中田實、滝口泰隆、久留素子、太田マスミ、石井真波、春未来、メグ、神戸俊樹、影法師、高林夕子、伊藤伸治、園部泉子、山本五郎、尾貝歩、りょすけ、藤田三保子、清水真理、田中流、香西文夫、齋藤洋由起、Tokin、滝沢汀、徳重英子、花空子、池田柊月 特別出演 武富健治(文芸漫画家)

※私の作品(短編小説)は顔写真付きプロフィールと共に234ページに掲載されております。

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漆黒の闇を切り裂く震度7!

北海道地震


 台風21号の爪痕も生々しく残り、その暴風の凄まじさをまざまざと見せ付けられたその矢先に北海道を襲った震度7の地震は『平成30年北海道胆振東部地震』と命名された。この地震で、道内をカバーする火力発電所が連鎖的に尽く運転を停止し、大規模停電ブラックアウト)を招く事となり、人間が創り上げて来たデジタル文化は一瞬にして自然の猛威の前に崩れ去った。
 地震による死亡者は10日の時点で41人となり捜索は終了した模様。最も懸念されていた電力不足は14日になって漸く電力供給の見通しが立ったとして、これまで続いていた節電目標20%は解除され数値目標なしの節電要請に緩和されたが地域によっては依然として過酷な状況が続いているようだ。
 物流停滞による食料品や飲料水、ガソリンの不足も札幌をはじめ道内各地で続いているため、市民生活を大きく脅かす材料となっており、一刻も早い交通網の整備と物流再開が待たれるが全面回復までにはまだ相当の時間が掛かるようで、未だ1500人あまりが避難生活を余儀なくされ、不安な日々を送っている。電力よりも更に厄介なのが水道管の破裂などによる断水だ。水は生活のあらゆる面で必要不可欠であり、命を繋ぐ最も大切な部分であるだけに一刻も早い復旧が望まれるが、未だ見通しは立っていない模様。
 7年前の東日本大震災発生時も、東京は震度5強の地震に襲われ、私の住む板橋区でも大きな横揺れが15秒ほど続き、至るところで被害が生じた。当時、私は体調が優れず床に臥せっており、地震発生時はひたすらベッドにしがみ付くしかなかった。棚の上に置いてあった大きめの空気清浄機がベッドの上に倒れ込み、押し入れの奥で寝ていた愛猫タラが物凄い勢いで飛び出しベッドの下に潜り込んでしまった。それから丸一日ベッドの下から出て来る事はなかった。
 危険を敏感に察知する能力は人間より動物の方が優れているのだろう。この時もやはり物流がストップし、食料品などがスーパーやコンビニの棚から消えてしまった。食料に困った私は静岡の友人に連絡を入れ、食料などを送ってくれるよう頼んだが、到着までに随分時間が掛かった記憶がある。それまでは非常食用にストックしておいた缶詰やレトルト物で凌いだ。
 豪雨、台風、地震と今年は例年以上に自然災害の発生が多い。しかもこれまでの常識が通用しない想定を越えた災害ばかりである。命を落とすほどの危険が身近になりつつある現状では、「まさか」と言う思い込みを捨て、あらゆる状況から身を守る術を学び身に付ける必要があるだろう。
 今年の冬の始まりが早い事を裏付けるかのように、北海道では130年ぶりの氷点下を観測したと言う。不自由極まりない避難生活が長引くほど心労が蓄積し、ストレスなどによって体調不良を起こし、命取りになるリスクも十分に考えられる。本格的な冬が到来する前に、温かい暖を取れるよう一日も早い完全復旧と平穏な日常が戻る事を祈るばかりである。

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ちびまる子ちゃんと清水時代の事(追悼)。

ちびまる子



 子どもから大人まで幅広いファン層に支持され、愛され続けた国民的人気アニメちびまる子ちゃん』の作者・さくらももこさんが、8月15日乳がんのため亡くなった。まだ53歳というその早すぎる死に多くのファンや関係者が言葉を失い悲嘆に暮れた。
 彼女ががんで闘病中だった事は一切公表されたいなかったこともあり、訃報が届いた時は「まさか?」の不意打ちで誰もが素直にその死を受け入れる事が出来なかったのではないだろうか。ここでももこさんについて多くを語る必要もないが、同じ郷里の出身者として鎮魂の意味も込めて記しておきたいと思う。
 彼女自身の幼き頃の姿を投影した「ちびまる子ちゃん(漫画)」は累計3千2百万部を越える国民的ベストセラーとなり、1990年からはアニメ化も始まり、日曜日の夕暮れ時、一家団欒のお茶の間には無くてはならない番組となった。主題歌の『おどるポンポコリン』は日本レコード大賞を受賞するなど、累計売上190万枚とアニメソングとしては空前絶後の大ヒットとなった。
 私は養護学校を卒業した後(15~16歳)、清水市(現:清水区)駒越にある療養型職業訓練施設に入所し、そこで約2年を過ごした。清水市万世町には親戚がおり、食道がんで亡くなった親友(53歳)も清水市出身で、友人・知人も多く住んでいるため清水は馴染み深い土地であった。
 休日ともなれば清水銀座商店街を友人たちと闊歩し、駅前銀座にあった長崎屋の販売員にひと目惚れし通い詰めたりと、恋愛の真似事や、早く大人になりたくて必死で背伸びしていたものである。施設から徒歩10分も歩けばそこには久能海岸が広がっており、波打際に並んだテトラポットに、駿河湾の荒波が音を立てて砕け散っていた。思春期の甘酸っぱい想い出がぎっしり詰まった清水時代でもある。
 海岸から富士山の方角に視線を投げれば手の届きそうな所に三保の松原があり、さくらももこさんもおそらく何度かは訪れていた事は想像が付く。彼女が清水市のどの辺りに住んでいたのかは知らないが、もしかすると幼少期の彼女と何処かですれ違ったり、施設の近所で元気に遊び回っていた小学生の女の子がももこさんだったりしたかも知れない。
 昭和49~50年前後の何気ないありふれた日常の一般家庭を描いた『ちびまる子ちゃん』の世界観は、昭和の良き時代のノスタルジーと相まって多くの人々の共感呼んだ。そしてまた現代社会で失われつつある家族本来の姿をユーモアも交えつつ、人との繋がりや家族の大切さを分かりやすく伝えてくれていた。
 きっと今頃は広い空の上ではしゃぎならが走り回っているちびまる子ちゃんが居るに違いない。さくらももこさん、お疲れさまでした。安らかにお眠り下さい(合掌)。

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息子と6年ぶりの会食!

悠飛2018


 7月21~22日の2日間、新潟にいる息子が上京して来た。21日は娘の所に泊まり翌日の22日、夜10時に西台駅で待ち合わせをして、そのままタクシーでアパート近くにある和食レストラン『とんでん』に入り遅いディナーを愉しんだ。
 私が注文した料理は和風ハンバーグ定食と生ビール。息子は秋葉原で友人と軽く食べて来たようで、ざる蕎麦とミニオホーツク丼。6月に娘と焼き肉を食べたので約1ヶ月ぶりの外食である。以前にも何度か話している通り、普段は味の薄い腎不全食(病人食)だから、この定食の量と味に「食べ切れるだろうか?」と一抹の不安を覚えたが、箸を付けてしまうと見た目よりも意外とあっさり味で、息子の顔を見られた事の喜びも相まって残す事なく全部を平らげる事が出来た。
 一人の時はアルコールも飲まないので、空きっ腹に僅か一杯の生ビールが身体中に染み渡り、顔が紅くなってしまった。息子と最後に会ったのは2012年の正月、まだ高校生で17歳だったから、6年ぶりの再会となる。高校生の時より少し太ったように見えたが、幼い頃の面影は健在で、肌が白いのは私の母に似たのかも知れないと思った。
 そんな息子も2年前に地元の娘さんと結婚し、今では一児の父親である。つまり私は「おじいちゃん」と呼ばれるようになった訳である。3人の子どもが居て、そして孫にも恵まれこれほど幸せな事もないだろう。天から授かったようなこの幸せを壊さない為にも、出来るだけ元気で長生きしなければとつくづく思う次第である。
 数年前、息子が私の詩集に興味を持ち、「手元にあるなら1冊送って欲しい」と言われた事があり、早速、送ってやると、数日経った後に詩の感想がlineで送られて来た。具体的な感想ではなかったが、お気に入りの作品が4点ほどあったらしく、詩集を大切に扱ってくれているようだ。その息子が今は小説を書いており、その短編小説が2次審査を通過し、雑誌に名前が載ったというではないか。母親が絵本作家だからやはりその血を受け継いでいるのかも知れない。
 母親曰く、かなりハイレベルな小説を書くようでついていけないと感心していた。自分の事はともかくとして、これでまた将来の楽しみが一つ増えたという事にもなる。私も息子に負けてはいられない、執筆途中の小説を元気な内になんとしても完成させなくては…。

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面影花火。

面影花火01



夜空を焦がして 舞い散る想い
たわむれ花火に 身をまかせ
浴衣の紐を ほどいたの
痛いほど突き刺す あなたの眼差し
忘れることなど なかったわ
けれどあなたは 遠い遠い空の果て
面影花火に 涙がにじむ

見上げるわたしと 見下ろすあなた
二人の間に 極彩色の雨が降る
夜空に消えゆく あなたの姿
追い掛けて 縋り付きたい この想い
わたしに 懺悔の抱擁 くれますか
けれどあなたは 過去の人
面影花火が 空に舞う

ヒュルル ヒュルル ヒュ~ルル
面影ゆれる 火花の海に
ヒュルル ヒュルル ヒュ~ルル
落ちる涙は 未練のしずく


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病気は薬と二人三脚で。

糖尿2018


 8月に入っても相変わらずの猛暑が続き、この暑さを喜んでいるのは喉を枯らして啼く蝉くらいのものだろうか…。私のように循環器系、特に心臓疾患を抱えている者としては、冬の寒さよりも汗をたっぷり掻く夏場の方が調子は良く有り難い。
 過去の例を取ってみても夏場に入院した事は一度もない。昨年8月の入院は抜歯の為だったので入院の数には入れていない。それを考えると一年以上に渡り入院とは縁がない、つまり心不全を起こしていないのである。
 数年前に心不全で緊急入院した時、担当医から3回目の心臓手術の話しを持ち掛けられたが、その手術が必ずしも現在の病状を回復させるものになるとは言えず、切ってみなければ分からないというギャンブル的要素もあったため即答は避け、その代わりもし夏場でも心不全を度々起こすようなら手術をお願いすると回答した。
 そんな事もあり、今年の夏が長ければ長いほど私は元気でいられると言う事になる。現時点で体重の増加は認めても浮腫むような事もなく、不整脈もバラバラながら落ち着いている。ところがである!5月の循環器・腎臓外来で、新たな病気が発覚したのである。それがなんと糖尿病…。循環器の主治医がたまたま血液検査を指示したのだが、HbA1c(ヘモグロビンエーワンシー)6.8、空腹時血糖値128と言う数値を見て主治医から「神戸さんこれは立派な糖尿病ですよ」と告げられてしまった。
 肝硬変の時と同様で私にとっては「寝耳に水」だった。2型糖尿病という事であったが、特に症状などはなく、切り傷や皮膚の傷が治り難いのはワーファリンを服用しているからであり、持病があれば似通った症状は現れるものである。原因として考えられるとすれば運動不足、年齢くらいのものだが、母方の祖母や叔父が糖尿病で亡くなっている事から、遺伝的要素も多分にあるのだろう。
 糖尿病と言っても数値的にはそれほど慌てて治療するほどでもなく、初期段階のため、血糖値を下げる薬を処方してもらった。それが上の画像、左から2番目の『テネリア』である。一番左の一包化された薬の殆どは循環器系の薬、強心剤、利尿剤3種、血圧を下げる薬、不整脈の薬など15種類。そして右側の薬はもう10年以上服用しているリフレックス(抗うつ剤)、サイレース(睡眠薬)である。
 歳を重ね病気も増えるに従って当然の如く薬も増えて行く訳だが、ここまで種類が増えてしまうと今更一つ二つ増えたところで気にする事もない。大切なのは薬だけに頼らず、薬の持つ効果を出来るだけ発揮させるために、生まれ付き持っている自己治癒力を信じ、前向きに病気と向き合う事である。病気は薬と二人三脚で治す、或いは改善させるものだと思う。

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地球温暖化と熱中症時代の到来!

熱波 


 先ずは皆さま、暑中御見舞い申し上げます。
 猛暑酷暑、そして烈暑と外出するのも躊躇うような殺人的な暑さが連日続き、埼玉県熊谷市では観測史上最高気温の41.1℃を記録するなど、日本列島各地が灼熱地獄と化している。僅か1週間に熱中症救急搬送された人が全国で2万2千人を超え、そのうち死亡者が65人にも及んでいると言う。まさにこれは災害ならぬ炎害であり、熱中症時代の幕開けとも言えるだろう。
 この猛暑は日本だけではなく世界各地で起こっており、米カリフォルニア州デスバレーでは52℃を観測、90人以上の死者が出るなど猛暑の凄まじさを物語っている。北欧の北極圏でもノルウェーで33℃を超え、スウェーデンでは至る所で森林火災が発生していると報じられている。またある国では猛烈な熱波の影響でアスファルトが溶け出し、中のコールタールが車のタイヤに絡みついて走行不能に陥ると言った信じ難い情報も飛び交っている。ベトナムでは南シナ海で発生した台風の影響で大洪水に見舞われて多数の死者が出ており、中国でも19万人が避難するなど、猛暑と豪雨がセットとなってアジア各地に被害を齎している模様。
 WMO(世界気象機関)によれば「北半球で異常な高温や豪雨、干ばつが発生するなど世界各地で異常気象が起きている」と警鐘を鳴らしている。これらの現象が気候変動によるものかは特定できないにしろ、温室効果ガスの上昇傾向には関連しているだろうと述べており、各地の異常気象の背景に森林伐採などの環境破壊も地球温暖化に拍車をかけているものと思われる。
 このまま温暖化の状態が進めば、そう遠くない未来で35℃を超える体温並みの気温が当たり前となり、日本では四季が無くなり夏と冬だけが交互に訪れるという、極端な気候に陥り、私たちの生活環境や生活スタイルも大きく変化せざるを得ない状況になる事も考えられる。
 日本の美しい四季を守るために私たちがやるべき事は温室効果ガス排出削減の努力であり、それが自分の身を守る、或いは未来の子どもたちに残す環境と言う財産にも繋がるのである。地球の環境を生かすも殺すも私たち人間の心がけ次第、自分の命を守りたければ地球に優しく接する事、それが責務ではないだろうか…。

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雨が恐怖に変わる時(西日本豪雨に思う)。

西日本


 地震の次は大雨と、次から次と襲い来る自然の猛威に、私たち人間は為す術もなく余りにも無力だ。家を失うのは致し方ないにしても最優先すべきは命であり、生きてさえいればやり直す事は出来るが然し、有無も言わさぬ突然の喪失感は後にPTSDとなって人の心を蝕み苦しみ続けるかも知れない。それでも人間の持つ未知なるパワーを信じて、明日に向かって歩を進めなければならない。命ある限り希望は必ずや見えて来るだろうから。
 平成に入り最悪の水害となった西日本豪雨。休むことなく3日3晩に渡り降り続いたその雨は、聖書に登場するノアの大洪水を想起させるほどだった。空には湿り気をたっぷり含んだ暗雲が重く垂れ込め、未曾有の雨が容赦なく地上に降り注ぎ、各地で土砂崩れを招き、河川は堪り兼ねたように氾濫し木材や巨大な岩石を押し流し、川沿いに点在する町や村を尽く呑み込んで行った。
 私はこの凄まじい豪雨のニュースを知った時、44年前に故郷の静岡を襲った水害を思い出さずにはいられなかった。それは私が10代の時に体験した大災害の事であり、『七夕豪雨』と命名され、人気アニメ『ちびまる子ちゃん』の中で『まるちゃんの町は大洪水』と題して紹介されている。
 台風8号の影響を受けた梅雨前線の活動が活発になり、24時間連続降水量が508ミリに達し、静岡地方気象台観測史上最高記録となった。この雨により静岡市内を流れる安倍川と、清水市内を流れる巴川が各所で決壊、氾濫が発生、昭和史上に残る大水害を招いた。当時の私は仕事をしながら夜間のデザイン学校に通っており、その夜は課題のデッサンを完成させるため、会社の事務所で一人、黙々と鉛筆を走らせていた。雨が降り続いているのは知っていたが気にも留めなかった。
 時計が午前0時に差し掛かり、眠気も強くなったので帰る準備をし、1階作業場のシャッターを開けて外を見た時、真っ暗な空から槍の先のような雨が凄まじい音を立ててアスファルトの地面を叩きつけていた。それは初めて雨の恐怖を肌で感じた瞬間だった。この雨ではとても帰れないだろうと思い、その晩は事務所のソファに寝る事にしたのだが…。
 睡魔に襲われ深い眠りに落ちた後、どのくらい時間が経過したか分からぬが、耳元で「ピチャピチャ」という水の音に起こされた。事務所の電気は点けたままにしておいた筈だったが、それも消えて辺りは真っ暗闇。外では相変わらず激しい雨音がしている。ソファの少し下に手をやると一面が雨水で溢れ返っており、「このままではヤバイ」と身の危険を感じたため、真っ暗な中を手探りで2階の作業場に避難し、雨が止むのを震えながら待った。
 外が明るくなると同時に雨も止んだため、少し安堵しつつ1階の作業場を覗くと泥水と一緒にあらゆる物がプカプカと浮かんでいる。これは大変な事になったと不安が身体中を駆け巡った。1階のシャッターを開け外に出ると辺り一面がまるで海のようになっており、茶色の泥水に混じって瓶や缶、日用品などが止めどなく流れついていた。
 兎に角、自宅に帰らなくてはと思い、泥水の中を歩いて行ったが水は腰の辺りまで達しており、徒歩数分の所にある自宅アパートまでは随分時間が掛かってしまった。路地から広い通りに出ると、普段なら車の往来で激しい道路の上をモーターボートが水飛沫を上げて走っていると言う信じ難い光景を目の当たりにした。自宅は2階だったため難を逃れる事が出来た。そしてそれから一週間はゴミや土砂の片付け、消毒作業などに明け暮れ、洪水前の日常が戻るまでに一ヶ月ほど掛かった。2階の屋根辺りまで泥水に浸かった家の住人が屋根から助けを求め、自衛隊のヘリが救助しているシーンをいまでも鮮明に覚えているが、残念な事に同級生数人の家はこの豪雨で流されてしまったと言う。
 このような経験はもう二度としたくはないが、いつまた災害に巻き込まれるか明日は我が身である。先ずは安全確保と命を守る事に徹し、災害を乗り切って行ければと思う。最も被害の大きかった広島、岡山、愛媛の各地域では、急ピッチで復旧作業や捜索が続いているが、連日の猛暑土砂瓦礫の山に阻まれ、作業は難航している。
 困っている時はお互い様である。こんな時ほど普段の人との繋がりが如何に大切であるかを思い知らされる。炎天下での復旧作業は想像を遥かに超えるほど人の体力を奪って行く。避難所生活が長引くほど心身の疲労は蓄積して行くだろう。辛い時だからこそお互いに助け合いマンパワーを信じて乗り切って行って欲しい。最後に被災された方たちへのお見舞いと、犠牲になった多くの方々のご冥福を祈り、一日も早い復興が進む事を願って止みません。

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星に願いを込めたなら(七夕に寄せて)。

天の川



七夕祭りの 夜も更けて
あの娘もきっと今頃は 短冊片手に願いを馳せる
星の瞬き溢れる想い 夜空の果まで旅支度
星に願いを込めたなら
天の川さえ 流れを止めて
二人の行く末 見守るでしょう
年に一度の逢瀬と知って 夜空の神さま紅ら顔
星に願いを込めたなら
宇宙の果で 散歩する
二人の星が 一つになって
僕の短冊 想いと一緒に 宙(そら)に舞う
星に願いを込めたなら
笹舟ながるる 天の川
向こうの岸まで 届けておくれ


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地震より怖い人災事故。

大阪地震


 都市部に於ける地震対策が旧態依然とした現状を裏付ける形となった、大阪北部地震。地震の発生が最も混雑する通勤・通学の時間帯という不運も重なり、各駅の周辺では次々と人の波が押し寄せ、大混乱を招いた。緊急停止したエレベーターに閉じ込められた人の数は300人を超え、狭い空間で恐怖に慄く時間を体験する事となった。
 鉄道や高速道路などの交通網が広範囲でマヒし、膨大な数の人の移動に影響が出るなど、ガス・水道のライフラインも寸断され大都市の脆弱性が浮き彫りとなり防災に対する多くの課題を残す結果を招いている。
 今回の地震は過去の巨大地震と比べれば特別大きいわけではなく、中規模地震といえるだろう。然し、都市直下型だった事が予想を遥かに超える被害を生じたとものと考えられる。更に阪大で行われていたiPS細胞を使った重篤な心臓病を治療する世界初の臨床研究が地震により設備の一部が壊れるなどしたため、大幅に研究が遅れる結果となり、研究者たちも一様に落胆の色を滲ませていた。
 この地震では5人の方が犠牲になり亡くなっているが、連日報道されているように、小学4年の三宅璃奈さんが倒壊したブロック塀の下敷きになり死亡した事故では、過去に違法建築物である危険性を専門家から指摘されておきながら、改善処置を講じなかった市の職員、学校関係者並びに建築業者の責任であり、明らかに人災による事故と言わざるを得ない。
 喉元過ぎれば熱さ忘れると言うが、自然災害に対して私たちはこれまで幾度となく経験し、辛い思いをして来たにも関わらず、過去の体験から得た教訓を活かし切れていないのも事実である。忙しない日々の日常を送っている内、普段の気持ちの中に油断や隙間が生じ、大切な事を忘れがちになる。
 日本列島の地下は数多くの活断層が縦横無尽に走り、日本の何処で大地震が起こっても不思議ではない状況である事を意識し、防災への心構えを再認識しておくべきだろう。最後にこの地震で罹災した多くの方々へのお見舞いと、亡くなられた方のご冥福を心よりお祈り申し上げます。そして被災地での復興が一日も早く進み、平穏な日常を取り戻せる事を願います。


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虐待児の子守唄(船戸結愛ちゃんに捧げる)。

結愛



声を 殺して 見上げた空に
流れる 涙の せいかしら
ぼんやり にじむ お月さま
両手 合わせて 瞳を閉じる
ゆるしてください お母様
幼い 心の 願い事

丸い 笑顔の お月さま
お母様には 内緒にしてね
光も 届かぬ 暗闇で
勉強机が 一人ぼっちで 泣いていた
宿題 書かなきゃ 叩かれて
今日の ゆうげは お預けよ

やさしく きれいな お月さま
わたしの代わりに 泣いてるの
守りきれない お約束
わたしをたくさん 責め立てる
父 母 いじわる 通せんぼ
ゆるしてくれずに 通せんぼ



※痛ましい虐待事件がまた起きてしまいました。無力な人間の一人として供養の意味を込めてこの子守唄を書きました。虐待を受けた経験のある者として胸の張り裂ける思いです。船戸結愛ちゃん、安らかにお眠り下さい。

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幸せを運ぶ回転寿司。

回転寿司2018.4.22


 4月下旬、昨年の12月以来、久しぶりに娘と会食を愉しんだ。都営三田線の西台駅前にある『魚屋路(ととやみち)』で、4ヶ月振りの回転寿司。腎機能低下を考えると折角の寿司が不味くなるので、外食の時は病気の事をなるべく忘れるようにしている。
 娘が主役だから娘の注文した物に少し箸をつける程度だが、普段の食事が味気のない腎臓食なので少量でも十分腹を満たす事が出来る。然し、最近はその腎臓食にもだいぶ慣れてきたせいもあり、外食の味の濃さに眉をしかめる時がある。
 病気を抱え厳しい食事制限のある中では箸をつける事に躊躇いが生じ、思うように食が進まない事も多々あるが自分の限界をわきまえてさえいれば、十分に料理を愉しむ事は可能だと思っている。
 くるくる回る回転寿司を眺めているだけでも食べた気になれると言うのも不思議であるが、眼で愉しむのも食事の醍醐味だと思う。どうしても口に入れたい物がある時は娘と二人で半分ずつ分けて食べる。
 健康的で若い娘が次々と回って来る皿を手に取り、元気に寿司を頬張る姿を見るのも親として幸せのひとときだと思う。最後には必ず甘いデザートを一つ注文するが、それも親子で半分ずつ食べるようにしている。
 このように親子で会食を愉しむ時間がこれからも末永く続くよう、私は私なりに病気の進行を遅らせる努力を怠らないようにしたいと思う。幸せを運んでくれる回転寿司に感謝しながら、娘と二人店の外に出ると、沈みゆく太陽が西の空を真紅に染め上げていた。

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さよなら、ヤングマン(西城秀樹さんを偲ぶ)。

西城秀樹


 昭和から平成にかけて時代の寵児として駆け抜けた歌手・西城秀樹さんの告別式が5月26日、港区の青山葬儀所で行われた。会場には数多くの著名人や芸能関係者、ファンなど約1万人が参列し、故人を偲んだ。
 親交の深かった野口五郎さんと郷ひろみさんが弔辞を読み上げ、遺影に別れの言葉を贈った。5月16日の昼頃に届いた突然の訃報には、誰もが「信じられない」といった様子で言葉を詰まらせていた。2度の脳梗塞を患いながらも持ち前の精神力で復活し、リハビリに励む彼の姿は多くの人々に勇気と希望を与えてくれていただけに、彼のあまりに早すぎる死が残念でならない。
 私自身も2013年1月に脳梗塞で右半身が完全に麻痺し、死の崖っ縁から奇跡的に這い上がって来た経緯があるため、とても他人事には思えないのである。
 おそらく西城さんの身体は見た目よりも、眼に見えない部分がかなり疲弊していたのではないだろうか。急性心不全を招く危険因子は、高血圧・糖尿病・高脂血症などの脂質代謝異常から風邪などの感染症、アルコール、ストレスなど多くのものが複合的に絡んでいる。これらの危険因子が原因で致死性不整脈を引き起こしその結果、急性心不全に至り命を落とす事もある。
 生涯現役を貫いて来た西城秀樹さんは、リハビリを続けながらステージに立ち、歌手活動を続けて来た。もちろんその裏には献身的な家族の支えがあったからであり、人一倍健康面でも気を使っていたはずである。然し、芸能界は私たちが想像する以上に厳しい世界。脳梗塞を発症後、引退も考えたが、2人目の子どもの誕生を控えていた事もあったようで、それが引退を思い留まらせたようだ。豪快で負けん気の強い性格も脳梗塞の引き金になっていた部分もあったのかも知れない。
 1979年2月にリリースされた西城秀樹さんの代表曲であるヤングマン(Y.M.C.Aヴィレッジ・ピープルのカバー)はその振り付けが一大ムーブメントを引き起こし、社会現象にもなった大ヒット曲として知られ、その後も多くの歌手たちがカバーしており、現在ではワイモバイルのCMソングとして起用されている。
 西城さんの歌はこれからも末永く多くの人たちによって歌い継がれて行き、色褪せる事なく私たちの心に寄り添ってくれるに違いない…。
 謹んで心よりご冥福をお祈り致します(合掌)。

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麻生太郎のセクハラ漫談。

失言  


 忖度、改ざん、隠蔽、疑惑、辞任、撤回、失言、暴言、セクハラ…これらの単語は私が思い付いた政治家や官僚たちのキーワードであるが、他にもまだまだあるだろうし実に情けない話しである。政治家の失言や暴言は今に始まった事ではないが、失言ランキングなるものを付けるとすれば、おそらく麻生太郎氏が断然トップではないだろうか。
 副総理・財務大臣と言う二つの重要ポストにあるお方が、その肩書に泥を塗るような発言をするなど、全く不名誉な事である。
 女性記者へのセクハラ報道を受け辞任した福田淳一氏を擁護するような誤解を招く発言で、女性団体関係者らが抗議の声を上げ、麻生氏に反省と謝罪を求めたが、それも当然の話しである。
 「セクハラ罪という罪はない、殺人とか強制わいせつとは違う」。確かにその通りではあるが、ならば犯罪でなければ何を言っても(やっても)よいのか?という事になる。これはモラルの問題でもあり、モラハラにも相当するのではないだろうか?
 近年、このハラスメント(嫌がらせ)が社会の大きな問題となり、これに関する話題をニュースで聞かない日はないほどになっている。この背景には人間の美徳である『人を敬う心』が大きく欠如して来た事が要因となっている部分もある。自分を律する気構えと、他人を思い遣る優しい気持ちを忘れている人の何と多いことか…。
 国会に眼を向ければ、イラク日報問題、森友・加計問題など、自殺者まで出しておきながら、真実の行方は未だに明らかにされず隠蔽体質の政治家や官僚たちの答弁が議事堂を空虚の渦に巻き込み、真実の欠片ひとつも見出す事が出来ない。
 人の上に立ち、公職という思い重責を担っている者は、その襟を但し人の模範となるような行動を取るのも役目のひとつである。残念ながら現在の日本にはそのように志しの高い政治家が非常に少ないのも事実である。
 『人のふり見て我が振り直せ』という諺がある。今の日本に足りないものはきっとそれなのかも知れない。私も十分気を付けたいと思う。

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ライブの余韻が譜面に残り。

譜面


 演奏が終わり観客が引き上げたステージで、男が一人譜面を見詰めていた。自分の歌を確かめるように、音符を一つずつ拾い集めギターの弦を震わせた。人が喜び楽しめる曲を作りたいと彼はいつも思っていたが、独りよがりの歌声は人の心には響かない事は分かっていた。
 譜面は嘘をつかないから、自分の音魂の鏡でもあると思う。今日のステージを振り返りながら、曲の構成を確かめてみる。スタンドバイミーの様な誰もが知っている名曲は受けが良い。客の反応は既にイントロで分かるもの。
 俺がビートルズのメンバーだったらこんな風に歌うだろうと、ヘイ・ジュードを演奏する。譜面をめくりながら曲の余韻を確かめる。「○○君、そろそろ帰るよ」ミュージシャン仲間が声を掛けて来た。腕時計を指で確認しながら、愛用のギターをケースに仕舞い込む。
 慣れた手付きが白い杖に伸びる。「足元気をつけて」と仲間がホールの電源を切った。彼に暗闇は関係ない。心に刻まれた譜面を閉じて、盲目のライブが終わりを告げた。

※友人でミュージシャンの『江戸川レノン』さんをモチーフに描いたフィクションです。

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